ネット批判。人はなぜ価値観が違う人を許すことができないのか。




生産性のない記事かもしれない。

僕は今地元の山梨県富士吉田市にいる。

ちょっと訳あってお休みをとって弾丸で帰ってきた。

用事を済ませ、午後から暇だったので車で街をフラフラとドライブした。

なんか変わったような変わらないような…

特に車から出ることもなく、1時間も走り回ればもう行くところもなくなってしまい、家に帰ってきてしまった。

まだ11月だというのに富士吉田は寒い。

今朝なんか-2℃だった。

「10年前はこんな寒い街に住んでたのか…」

ふとそんなことを考えつつ、なんとなく信じられないような気がした。

東京ではここまで冷え込むことは珍しいし、雪もめったにふらない。

日本もいろんなところを旅したけど、富士吉田みたいな雪国のほうが珍しいのかもしれない。

当然そういうところで住んでいれば雪国の常識や、そこに生きる人の価値観なんてわかるわけないし、逆に言えば雪国に住んでいる人に雪がふらない都会に生きる人の気持ちもわかるわけないのかもしれない。

僕にも地元のことはもうよくわからない。

さすがに午前0時を回っても酔っ払いや若者で溢れている東京に10年も住んでると、だんだん山梨に住んでたときの価値観とかは忘れてしまう。

「たしかに山梨は田舎だし、寒いし、なんもない。」

でもその中で今日久しぶりにきれいな富士山をみることができた。

そうか、そういう良い所があるのだから、別になんでもいいんじゃないか…

そんなことを車に乗りながらふと思った。

かつて山梨から東京に出たときは東京が1番いいと思っていた。

それは常識も価値観も。

世界を旅して1番変わったのはそういう感覚的なところかもしれない…。

世界には様々な人がいた。

日本みたいに単一民族国家もあれば、ごちゃごちゃのところもある。

国民の90%以上が同じ宗教のところもあれば、同じ国なのに場所によって言葉が違う国もある。

「みんな同じ人だ」なんて言うのはかんたんだけど、一人ひとり考え方も違えば顔も違う。

髪の毛の癖も違えば身長も違う。

“基本的にはみんな違う”ということに旅をして気がついた。

それは日本だって例外ではない。

そもそも地域によって常識なんて違うし、同じ街に住む人だって10人いれば10個の価値観がある。

価値観が違えば考えも違ってくる。

例えば、不倫をいいと思う人も、だめだと思う人も、平気でする人も、だめだと思いつつする人といるのだと思う。

例えば、スケートリンクの下に魚を埋めることをいいと思う人も、だめだと思う人も、どうでもいいと思う人も、キレイだと思う人もいるのだと思う。

だから基本的には人と人はわかりあえないはず。

わかりあえるわけなんかない。

でもそれで良いのではないかと僕は思う。

自分の価値観を人に押し付ける必要なんかないし、押し付けられる理由もない。

だけど人は自分の価値観を押し付ける。

なぜか押し付けたがる。

そして価値観を押し付けるときに出てくる言葉なんかネガティブなものしかない。

「あなたが悪い」「なんでそんなことをするの?」「それは違う」「反省しろ」「バカ」「死ね」

ネガティブな事を言われれば、人は傷つく。

そんな事は子供でも知ってる。

だけど、ついつい言ってしまうように人はできてるのかもしれない。

僕はこういう誰が見てるかもわからないブログという媒体にいろんな事を書いていて、何かの事柄に対して突っ込んだことを書いたこともあったりはする。

もちろん似た価値観の人が読む場合もあるし、違うという人もいるから炎上した事も何回かある。

ただ、【桑原淳】という一人の男の意見として、素性を明かしインターネット上にある自分の媒体で好き勝手書いて何が悪い…と思っているところもぶっちゃけあるし、ある程度批判がくるであろう事もわかって書いている部分はあったりもする。

その中でたまたま読んだであろう僕と価値観が違うという人は、必死になって批判をしてくることがある。

どこの誰かはわからない。

でも必死に「あなたは間違ってる」と説き伏せようとする。

だけど一体どこからそのエネルギーが来るのだろう?と思うくらい必死に。

人は簡単に流される。

そういうものを見たまた別の”誰かさん”が同じように叩くようにこの世はできてるらしい。

そんな物は、無駄だとか、良くないことだとかみんなわかってる。

だけど、誰かが始めればみんなが批判をしはじめる。

普段は普通のサラリーマン、学生、主婦。

その普通の人がよってたかって誰かを叩いてしまう。

そこに感情はないのだと思う。

なんとなく、自分と価値観が違う人にポロッと何かを言っただけ。

なんとなく、みんなが批判的だから文句言ってみただけ。

ただそれだけ。

スケートリンクに魚がいようが、誰かが不倫しようが、そんなものどうだっていいはずで。

ほんとは。

だって価値観が違う人間がやってることだし、そもそもまったく関係ないところで起きていることなのだから。

でも人はほっとかない。

なぜかそれを許せない。

そうして多くの人が叩けばきっと当事者である誰かが泣くだろう。

困るだろう。

でもそんなことは関係ない。

きっとかつてテレビの前で「こりゃないよな〜」とふと言っていた感覚と似ているのかもしれない。

どこか遠い世界の人に、見てないと思ってふと言葉を発すること。

その一人ひとりの発言というのが、現代ではネット上になり、ネット上ではそれが形として見えやすくなる。

だから集団叩きのように見えてしまうのかもしれない。

実は僕の知ってる人がネットでいろいろと言われているところを今回見てしまって、なんとも複雑な気持ちになったから誰に当てたわけでもなくこんな事を書いてみた。

知らない人のことにネガティブな批判をする人と同じくらい、これを書くという行為自体生産性がないことをしているのかもしれない。

だけど、僕も炎上したことがあるから叩かれる人の気持ちはわかってるつもり。

だから叩く人、またはポロッと叩くかもしれないすべての人に一言だけ最後に伝えたい。

一人ひとりの言葉なんて、大した力を持たない。

言った本人だって忘れてしまうことかもしれない。

でもそれが100にも200にもなれば、十分人を傷つける可能性はある。

もしかしたら悪い意味で人生を変えてしまうこともあるかもしれない。

ネットではそういう事が簡単に起こってしまう。

これは叩かれたことがある人、またはその関係者なんかにしかわからない気持ちだと思う。

わからない人は誰でも100分の1とか200分の1になる可能性があるのだろう。

なんの気なしに書いたコメントでも、送信ボタン、投稿ボタンを押す前に、もしかしたらちょっと冷静になって考えてみたらいいのかもしれない。

価値観なんかみんな違うものだから…。

実家の近くで見た富士山

実家の近くで見た富士山。富士吉田は素敵な街だ。

意外と自分がいろいろ言われるよりも、自分の知ってる人がいろいろ言われているのを見る方が嫌だということを知った。

この記事を読んで1人でもそういう人が減ったらいいな…と。

そんなひとりごと。