びっくりした。
高校の英語の教科書に僕載ってるらしい。
インスタでフォロワーさんから教えてもらった。
“らしい”というのは、知らなかったわけではない。
知らなかったというか、忘れてた。笑
アレは遡ること3年前…
英語の教科書に載ってくれませんか的なお話がやってきた。
まだ海外にぎりぎりいた頃だったと思う。
こちらの高校3年生の授業で使う英語の教科書の見開きで紹介させてくれないかという内容だった。
取材を受け、世界一周のときの写真を提供した。
教科書というものは4年くらいの周期で変わるらしく、そのため「発行されるのは2019年です。それまで他言無用で」と言われていたので今までマジで忘れてた。
僕の前のバージョンの見開きは、エグザイルのウサが起用されていたそう。
その代わりが僕だというから正直「ま、マジすか」という感じだったのを覚えている。
しかも、これから4年間高校3年生の教科書に載り続ける。
JKになんと言われているのだろうか。
こんな事ならJKに検索されたときのためにティックトックでだれでもダンスでも踊っておけばよかった。
ところでだ。
こういう経験をしてみてなんかちょっと思うことがある。
自分がどのような高校生だったかは、別に関係ないのだな…ということ。
高校生時代、僕はよく先生に怒られてた。
なんかめんどくさいと思うことがよくあったので、よく授業とかサボってた。
美容学校の進学も担任の女性の先生が僕の遅刻を全部無かったことにしてくれたので何とか受験できたレベルで。
遅刻3回で欠席1みたいな謎ルールで出席日数があまりにも足りない…と、ほどほどにポンコツだったっぽい。
そ~言えば、あのジジイ先生にもいろいろボロカス言われたなぁ…。
懐かしいなぁ。
そんな僕でも高校の教科書に載るんだから、もはやネタでしかない。
でもそういうもんなのかも知れないね。
過去が何であれ、人は良くも悪くも表面的な事を見られ、評価されがちということ。
良くも悪くも。
だから結局何が正しいとか間違ってるとかはないのかもしれない。
昔は昔、今は今なのかな。
過去にあやまちをおかしたとしても、だからといって未来が暗くなくなるわけじゃない。
逆に過去の栄光にすがる事も無意味なのだろう。
高校生のときどうだったとか、20歳のときにどうだったとか、30歳のときにどうだったとか、そういう過去が自分を形成してるとはいえ、それはそれなのだろう。
カッコいい大人はいつだってちゃんと前を向いてる。
教科書などという神聖なところに載せてもらえたのは非常にありがとうございますなのだが、世界一周してたときの自分とも取材を受けた3年前の自分ともまた違う自分が今はいる。
今は今だ。
そして未来は未来だ。
それでいい。
過去に甘んじて、しがみついて、しっかり前を向いて一歩一歩進んでいくことを怠るときっとダサい大人にしかならない。
そうなりたくないから、僕は常に変わり続けようとする。
想像できない未来って、ワクワクするよね。