ワクワクを無視する自分と戦うべきだ

35歳になれば周りも歳をとる。

口を揃えていうことが『保守的になった』ということだ。

守るべきものが増えて腰が重くなったというのは、これまで生きてきた中でそういうものを作れたということなのだから喜ぶべきことだろう。

体力的なこともあると思う。

けど一番は感動しなくなったということだろう。

見たことがある、聞いたことがある、やったことがある。

気がする。

経験がなくても近い経験はしたことがあったり、想像がついたり。

そういったものにたいして『やりたい』という気持ちがわかない。

そもそもワクワクしない。

保守的かどうかというより、動きたい気持ちが湧きづらくなっていくお年頃なのかもしれないと35歳になってみてようやく気がついた。

だけど今僕はこんなにもワクワクしている。

高校を卒業して上京したあの春も。

始めて就職した青山の美容室で働き始めたあの日も。

仕事をやめた次の日に東京を飛び出したあの朝も。

リュック1個で世界一周の旅に出たあの瞬間も、全てがハイライトであり瞬間最大風速を観測していた。

今も実はそんな感じがある。

守るべきものはあるし、体力も落ちた。

経験は人よりたくさんしていると思う。

それでも今そんな風を感じている。

結局僕らは明日をよく知らないのだ。

どんな世界が待っているか、想像がつかない。

この人といるんだろうなぁとか、この猫とゴロゴロしてるんだろうなぁとか、この仕事を続けているんだろうなぁとか、改めて思いもしない。

涼しい風が入ってくる夕方、玄関をあけて換気をしていた。

玄関をしめに行ったところ空がすごく赤いのが目についた。

思わずスマホを握りしめて走った。

行かなければならないと思ったからだ。

家から歩いて2分のところには漁港がある。

1分後その漁港で目にした光景は、まさに息を呑むという表現しか当てはまらないような夕焼けだった。

生まれてから何度も見てきたはずの夕焼けに感動した。

あのユーラシア大陸最西端のロカ岬で見た夕焼けにも、ベトナムの山奥で見た夕焼けにも、勝るとも劣らないその瞬間とは走り出さなければ出会えなかっただろう。

わずか1分後にはほとんど沈んでしまっていた。

歩いていたら出会えなかった瞬間。

もっと早く気がつけばよかったとは思わない。

その瞬間に走り出さなければ見れなかった光景でなければ、人は走らないから。

衝動的にサンダルで走った。

それがもしかしたら人間にとって一番素敵な感情なのかもしれない。

歳を取って忘れてしまったわけではない。

ただ少し、言い訳がしやすくなっただけだ。

挑戦するなんてだいそれた事を言いたいわけではない。

だけどワクワクするものをやっぱり無視して生きていくことは出来ない。

福岡に来ていろんな出会いや発見があって、風速があがっているように感じる。

背中を押されるような、圧力。

その度に周りとのスピードのズレを感じはじめている。

でもそれ故にすべては自由自在なのだと思うのだ。

好奇心に身を任せ、動いてきたその先にあるものは全てが自由だった。

それは自分自身の過去が証明している。

結局ワクワクの先には良いことしかないということを。

僕らは明日をよく知らないのだ。

どんな世界が待っているか、それは想像がつかない。

ワクワクを無視して生きようとする自分とだけは戦わなければならない。

めんどくさくて走り出さずにドアを閉めていば感動したかもしれないという後悔にさえ出会うことがないのだ。

こんな今日があったかもしれないという発見だけでも大きいはずなのに。

後悔するだけマシだ。

僕らは明日をよく知らないのだ。

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