ちょっと前にジブリの新作「君たちはどう生きるか」を見た。
その感想はさておき、主題歌の地球儀という歌にはとても心を動かされた。
特にある一文、わずかに16文字の「この道が続くのは続けと願ったから」という言葉は僕にとって衝撃的だった。
何をどう生きたらこんな言葉が出るのだろうか。
9年近く毎日のように文字を書き続けてたのに今年はかなりその頻度も下がり、内容としてもクオリティが下がったと自分では感じている。
それはやっぱり内面的なもので、文字そのものを書くということではなく押し出すような熱がそもそもない。
燃え尽きたと言ったらそれが一番正しい表現のような気もするが、僕は何かを失って、それを探しているうちに福岡にたどり着き、結局何も見つからないなかでこの言葉に出会った。
僕は日本人として生きていきたいと、その想いが年々強くなっていってる。
なぜなのか?というのは理解していて、経営者として感じている人や物やお金や資本主義への疑問と、個人として子供の頃から感じている世界への疑問といったものの正体を知るべくたくさん勉強した結果だ。
知れば知るほど自分の中で無秩序で抽象的だった”何か”が、より具体的にまとまってくる。
まとまったものは元には戻らないということを知った。
人は知識をつけることにより、より小さく硬くなっていくのだと。
知らぬが仏、知らないということは幸せなのかもしれないとさえ思うときもある。
なんのために学んできたのか?なんのために経験を積んできたのか?なんのために?
元に戻れないということを意識すればするほど、僕はアイデンティティを探すようになった。
僕という存在がなぜ発生したのかということを。
数年前に【桑原】という自分の名字のルーツを調べたくなって図書館で地域の民俗学の本や古文書、学術的な記事を読み漁り、山の中の神社へ行ったりした。
合わせて日本人として日本のルーツを研究し始め、そんな事を続けて数年が経ったら逆に理由が分からなくなった。
「なぜ今の社会はこうなのだろう?」
「なぜ誰も何も気にしないのだろう?」
誰も何も、ではないことはわかっている。
やる人はやるし、やらない人はやらない。
結婚も犯罪も、趣味も仕事も、何もかもがそういう風に差があるものだし、それ故に色も形も違うのだから。
一律で何も言えないのだけど、空気感はそのように感じる。
密室で9人がタバコを吸わなくても、1人が吸えばその空間はタバコの臭いが充満する喫煙ルームになってしまうようなイメージ。
本当の気持ちや本当にやるべきことと、空間がズレている。
それが嫌でも何でもそこから脱することができないし、何も気にしないか我慢するということが正義のようになっている。
そんな部屋にはいたくないのだと僕は子供の頃から思っていた。
漠然とあっただけの世界に対する疑問の答えがタバコの煙なのだとわかった時に、どこか自分自身が自分自身と乖離したような感覚になった。
思想と現実がかけ離れ、頭と体が別になってしまったようなそんな感覚。
考えないようにすることは無理で、経験も知識も、もうそれは一度塗りたくってしまった絵の具のようなもので消すことは絶対にできない。
タバコが何かを知らなければ、まだ脳みそは平和ボケできてたかも知れない。
ただそんな風に生きていれば現実的に問題は起こる。
例えばタバコの煙の中毒でぶっ倒れるでもいい。
そういったことが起こると、それまでギリギリ機能してたものが止まってしまい一気に思想と体とが離れてしまう。
そういう事を経験し、不可抗力的に時間が有り余るという生活をしばらくし、その世界は楽しいものではなかったのだと気がついたりもした。
知ってしまったらもう戻れない。
かつてどうしてもたどり着きたかった、自由と呼んでいたその場所には、何もなかったのだ。
失望とも達成感ともまた違う変な感覚の中で、今度はかつての僕のようにその場所に理想を求めて生きる人と自分とがなんだか違うように思えてきてしまった。
もちろん、人と自分は違う。
ただ例えば共通認識のようなものが大きくズレてしまった時に、僕たちは何を話し合ったら良いのかがわからなくなった。
お金って大事だよね、時間って大事だよね、もっとほしいよね、自由っていいよねっていう感覚を共有できなければ、もっと他のことを話すしか無い。
それが僕は未来とかではなく【過去】そして【日本】であって。
ただ未来は先にあってこれからやってくるもので、過去は終わってしまってもう変えられないものだと考えている人がほとんどだし、【日本】についても学校ではちゃんと教えてくれないから知らない人が多い。
寿司とか天ぷらとかではなくて、日本人とは?日本人の精神構造とは?日本ってどうやってできたの?というような話。
それらがトピックとして一番難しいのだという絶望感をどうも感じているらしい。
その気持ち悪さを言語化出来てないことが気持ち悪かった。
10年近く文字を書き続けて、それでもたどり着く事ができない境地があったと知った時に「そうか」と思った。
僕はこれまで想像ができすぎてしまうがあまり、広く物事を考えていた部分がある。
子供の時からずっとそうで、地球や世界のこと、未来の世界のこと、戦争や差別について考えていた。
子供ながらになぜ世の中には重い病気になる人が稀にいるのだろう?とか思って病名を覚えて話してたら親にそんな事覚えるなと怒られたこともある。
みんながクラスのこと、部活のこと、ポケモンをどう強くするかを考えて話している中で、その先にある世界の話は誰ともできなかったししなかった。
ある一定の世界までに自分の思想と哲学をとどめ、周りに合わせることが苦痛で学校生活は正直好きではなかった。
その先の世界のことを誰かと共有しようと思うことさえなく、それが本当に孤独だったし辛かった。
親も友達も先生もわかってくれない。
なぜそんなにどうでもいいことを一生懸命やっているのだろうとか、逆になぜこれをやらないのだろうとずっと思っていて、そういうことを口に出せば「そういうものだ」と怒られた。
小学生の春休みの間だけ髪を金髪染めたいと言ったら親に怒られた。
なぜ怒るのかというその建前は理解できたが、どうして無意味なことにこだわっているのか、一体何が親をそこまで否定的にさせるのかその理由はやっぱりわからなかった。
抽象的で解像度が低い世界のなかで、よりそれを鮮明にしていこうとすることが間違っているのかもしれないと悩んだこともあった。
けど知識と経験を積みどんどん具体化していく中で同じような人間が少なからずいることも知ったしそういう人とも出会えた。
そういう人と会ったときは時間の許す限り、それが10時間でも20時間でもあらゆることを話し続ける。
たぶんそれはトークではなく議論なのだと思う。
それが毎日のように続けばいいと思っても、そんな世界が成立するわけはないことはわかっていて。
ただある時10時間話す日をつくるために普段は休んでいるのかもしれない。
ゆっくりマラソンをするのではなく、100mダッシュする10数秒にかける感覚。
毎日の積み重ねで何かをするというよりは、一点突破のような生き方になってしまったのだと思った。
そしてその一点というものは、もうこれまで考えていた世界とはまるで違う場所へ行こうとしているのだと思う。
密室という空間でタバコを吸っている奴がいたとしても、そこに自分が居ることを悩む必要はないという発想。
入ったはずのドアがあるのだから、そこから出れば良いというシンプルな発想。
周りと話を合わせてその空間で毎日を積み重ねていくより、その外の世界でなにか1つ足跡を残した方がいい。
誰かの理解、誰かの共感、誰かの幸せ、誰かの利益、そういったものを意識するがあまり、見えていたのに見ようとしなかった世界がどうも僕にはあるような気がする。
子供の頃からずっとそれは気がついていたけど、そこに行く実力もお金も、経験も知識も何もかもが足りないと思っていた。
それが身についたと思ったときにようやく気がつけたことが、そんなことはなくていつでもシンプルにドアを開けたらそこに行けたのだという事だった。
地球儀を作詞するのに米津玄師さんは2年を費やしたという。
曲を完成させるまで4年。
もちろんその他の時間にダラダラゴロゴロ寝ていたわけでは無いにしても、そんなに時間をかけるのは不思議なことのようにも昔の自分なら感じたのではないかと思う。
共感されるものや、楽しいものはすぐにつくれる。
それはそれですごい事なのだけど、足跡とまではいかないだろう。
サービスもアートもコンテンツがありふれてしまうのは、そこに見る人がいると考えるからなのだと思う。
その意識そのものが空間であり、壁を作り、部屋となる。
外の世界は怖い。
その話を誰かにした時に批判されるのは嫌だ。
人は人とコミュニティを作ったり関わり合って生きていくからこそ、絶対的に誰もがそういう気持ちを持つ。
繋がりたいのに、嫌われたくはない。
けどあえてそれを捨て、外に踏みでた時におそらく始めて作品というものは歴史や距離や文化を超えるほどの力を持ち、人のキャパのようなものも超えてくるのだと思う。
音、言葉、絵、映像、それがなんであれ、きっとあたりまえに理解されるようなものではない。
理解されるものではないから、それは世界に残るのだろう。
当たり前にある空間からそれを見た時に、人は何かを感じるようにはできている。
それがなにかは理解できないとしても、それが心が動くということなのだろう。
たった16文字で僕は心を動かされた。
どう生きたらそんな言葉がでるのだろうと本当に思ったけど、それは外に向けたものではなく、内に向けたのなのだと気がついたときに僕にもできるかもしれないと思った。
外の世界へ出ることは外を向いているということなのかも知れないけど、足跡を残そうと足を高く上げることは内なるものである。
その生き様がアートなのであって、足跡そのものではない。
たぶん思想がそこまで行き着いてしまうとかなり危ないと言うか、ある種現代的なタブーがタブーに感じなくなっている状態なのだと思う。
そしてもう戻ることはできない。
なんというか孤独が極まったような、一極化された超自然的な思想というか、姿形は同じに見えてもこの世に1つとして同じ模様の葉っぱがないことを受け入れてしまったというか。
テロを起こすとか犯罪を犯すとかそういうむちゃくちゃ事をやりたいとか言ってるのではなく、例えば死生観だったり時間やお金の感覚だったり、そういった所でタブー視されてることや常識が通用しなくなった自分になってしまった。
正直貯金も家も明日無くなってもいいし、事故って五体不満足になったとしてもいい。
そういうことが重要なのではなくて、それらも踏まえた自分全体が見ている世界に対して何ができるのかということだけが重要である、と。
今なら過去歴史に名を残した人が自殺したりした理由がわかるような気がしている。
それがわかるというのが危ないと思ってる時点で僕はそうはならないのだけど、近づいている感覚はあって。
けどそういう感覚ってきっとみんないつかは持つんだろうなと思う。
4年前に亡くなった僕のおばあちゃんは、幼少期の僕にいろんな世界のことを教えてくれた。
おじいちゃんも。
その頃のおばあちゃんの言葉と、亡くなる直前のおばあちゃんの言葉は確実に違った。
最後はより抽象的で解像度が低く、まるでもやがかかったような言葉たちの中に一際輝く一言があった。
そういうものをきっと金言とかっていうのだろう。
長年寝たきりで、年齢も考えると死を悟って生きていたのだと思う。
その悟りはきっと多くの人が歳をとったり病気になったりきっかけは様々だろうけどいつかはひらくものだと思うし、だから特別なことでも何でもない。
年齢と人生の時間が数値としてどんどんあがって具体化された世界は最後は尖るのだろう。
その外側は抽象的なモヤで溢れていて、どうでもいいものになる。
必要がなくなる。
必要だと思っていたものが多くあればそれは大きな円なのだけど、円だった人の思想はやがて点となるということなのだ。
そして最後は消える。
僕は今だから言えることがあると思う。
それはもっと大きな円だった頃より、もっと大きな点だった頃より、抽象的で具体的なのだと思う。
きっとその点として最後にあるものこそが人が生まれた使命なのであって、僕が名前を先祖から受け継ぎ親からもらった意味であり、日本人としてやるべき小さな事なのだと思う。
社長として生きることや猫が好きすぎるということについても葛藤はある。
ただ若干の悩みでしかない。
悩みもストレスももう殆ど無く、時間がありあまっている世界なんてあまり良いものではないということが悩みみたいなわけのわからない場所に今はいるけど、きっともうすぐここから何かを生み出せる気がする。
明日から本気出すって言って1年近くが経とうとしているけど、あの米津玄師さんでさえ4年でしょう。
僕はまだまだなのかもしれない。
ここまで読んでくれて理解できない人はまともだと思うけど、理解できる危ない人がいたらぜひ会いたい。