悩んでるという友達に言った。
『歴史があるから離れることは不安だし、ずっと熱々の鍋に手を触れ続けて火傷が治らないようなそんな状態かもしれないけど、離してみてわかることもあるよ』
半年くらい前に悩んでいたことがあって自分でそう思っていながらも決断できずにいた僕自身が、今そんなことを平気な顔して言えるのは、今が良くなったからなのだと思う。
人の裏切りは大体にして自分が何らかの悪い部分もあったり反省すべき点があったりするが、まるで通り魔のように理由もわからなければなぜそうしたのかもわからないような出来事に当時頭を悩ませていた。
因果があって、僕の行いが悪くて、それもゼロではないと思う。
しかしおばあちゃんになった母親の頭にバットをフルスイングするとか、自分が理不尽な社会に合わなくて病んで死刑になりたいから通り魔事件起こすとか、いくらなんでも『なんでそんなことができるの!?同じ人間ですか?』というような人として理解不能な部分がかなりあった。
プライベートでも深い付き合いがあり、会社のことも任せていたその人はアスペルガー×ADHDで鬱や虚言癖、パーソナリティ障害があるような要はサイコパスだっていうことがわかったのはかなり後のことで、それでも見捨てる事ができなかった。
見捨てるという表現自体おかしいのに、本当にそう思っていたのは出会ったときに『親に虐待されている』『友達にいじめられている』『居場所がない』などの話を聞いたからで、正直同情した。
最後にわかったことだったが、その全ては嘘だった。
実家も職歴も何もかも嘘。
ずっとそうして嘘をついて人に寄生するような形で家賃も払ったことがなければ仕事もまともにしたことがないような人生を送っていたらしい。
あまり書かないけど人としてついてはいけない嘘、命を弄ぶような嘘、そういうことも平気でつく人だった。
ある日1つの嘘がわかったときに、急にその眼の前にいる人が何者かわからなくなった。
長い時間をかけて信頼してきた人が、誰かわからなくなった。
話が噛み合わず、病院に連れていくとアスペルガーとADHDと診断され、医者からは『コレは治らない』と言われた。
人を騙す、嘘をつく、お金を抜き取る、こういったことに明確な意思があるわけではなく、脳がそうさせるらしい。
だからその人が悪いのではないと言う。
しかしお金を抜き取られた会社、嘘を疲れて騙されていた自分は『はい、そうですか』とはならない。
周りに相談すれば『そんな奴は今すぐ関係を切れ』とみんなが言った。
一度でも会ったことがある人は『はたから見てたら変な人だとは思ってたよ』と言った。
それでも盲目的にその人を信用しようとしていたのは、触れていたからだ。
触ってしまっていたからだ。
生活や仕事の一部になってしまっていたからだ。
そしてその歴史、つまり時間が僕の思考を鈍らせたのだと思う。
というより考えることはできていたけど、はっきりとしたくなかったのだと思う。
そうすることによって、右腕がなくなるだとか、そういうレベルの失う物があるのだと想像がついたからだ。
最終的にはいろいろ都合が悪くなったあちらが嘘の被害届を警察に出す形で終わりを迎えた。
警察に取り調べをされた僕は事情をすべて話した。
『お察しします』『こんな人とは関わってはいけません』『訴訟おこしたほうがいい』とまで言われた。
想像の範疇を余裕で超える出来事に、最後もスッキリはしなかったし、未だにうなされるようなところもある。
僕はその人を信じていたから。
今思えばなぜ信用していたのか、なぜすぐ縁を切らなかったのかなんて思うのだけど、その時もんもんと考えてもそこに至らなかったのは、自分自身に感情と歴史を重んじてしまう気持ちがあったからだった。
過ごしてきた時間を無駄なものにしたくはなかったという利己的な思いだったのかもしれない。
それでもその無駄に過ごした時間に対して後悔はしていない。
仕事のスタイルを変え、結果として事業を一部不本意な形で譲渡し、いろいろ嫌な思い出が詰まってしまった山梨を離れ、猫とともに福岡に来た。
昔からそう思っていたけど、何かがなくなれば何かが必ず入ってくる。
時間なのか空間なのか、思考なのか感情なのか。
僕が持つそれらのところからゴソっと大きくなったがん細胞のようなものが消え去って、入ってくるだけの状態になったときに気がついたこともたくさんあった。
新しい仕事、新しい人との出会い、新しい気づき。
福岡に来て1ヶ月が経つ頃には友達もでき、これまで考えなかったような新しい仕事もスタートすることができそうだ。
社会貢献したい、猫に貢献したい、頑張って働いてくれてる従業員に対してもっと良くしていきたい。
そういう思いのもと、新しく考える時間が増えていった。
色んな話が舞い込んできて、今は進むべきときだと直感がそう言っている。
あれもこれも、やる。
だけど1つ昔と変わったことがあって。
仕事はたしかに大切だ。
仕事を作ることは新しい価値を作ること。
そこに楽しさは感じている。
けど、僕は僕として猫とともに古民家で暮らす生活をはじめた。
その生活の中で、玄米を炊き、梅干しと納豆の朝ごはんを食べ、布団を干し、箒で床を掃くということをしている。
汚くなったから掃除をするのではなく、いつもそこを綺麗にしておける心の余裕が持てていることをただただ誇りに思うのだ。
人としての尊厳、人としてやるべきこと。
仕事も大切、恋愛や友達付き合いも大切。
だけどそれは生あってこそだ。
生きるということは、ビジネスで成功することでもモテることでもない。
その根底には自分がいるべきだ。
美容師時代は掃除どころか朝ごはんも食べたことがなかった。
食べないのだから美味しいと思うことも、感謝することもない。
社長になってからも家の掃除なんてしたことがなかった。
物が多すぎたからかもしれない。
今家にあるものは布団、ギター、冷蔵庫、IHコンロ、ちょっとした皿とか箸、ちょっとした服、電子レンジだけだ。
ものがないから散らからない。
それでできている生活に満足をしている。
猫は広い家のあちこちに自分の居場所を見つけ、よくそこで寝ている。
朝起きてご飯を一緒に食べる猫が何を考えているかなんてどうでもよく、ただこの猫とともに生きているんだという実感が僕の人生においては大きなことなのだと気がついたのだった。
正直無駄な時間を過ごしたものだと思っていた、憎しみのほうが強かった。
けど今はサイコパスだろうがアスペルガーだろうが、関係を断ち切ってしまえば関係することはなく、どこか遠くの国で起きている戦争のように実感がないものに思う。
その人は今もこれからも誰かに嘘をついて生きていくのかもしれない。
病院で先生が言うには治らないのだからそうなのだろうし、警察がいうにはそこに罪悪感もなく反省もしないから、もうずっとそうなのだと思う。
最終的には僕は気づきをもらえた。
それだけはありがたいことだと感謝している。
そして、聞く限りでは同じようなことで悩んでいる友達が今一人いる。
彼はきっとすごくツライのだろうと思う。
やってきた仕事も、生活も、関係性もひっくり返るような、何を頑張っていたのかわからなくなるような、そんな今彼が何を考えているのかはわからないけどわかる。
それは僕も経験したことだから。
いつかどこかで、いつか誰かが、それに終止符を打ってくれることだとは思う。
自分でできたらそもそも悩まないのだから。
けどいつかは来る。
それが僕にはわかるから、わかるようになったことはその経験ゆえだから、それもやはり無意味な時間ではなかったと思う根拠であったりもする。
その時がきたらはじまりの歌をうたう。
それはきっと、新しい旅の始まりだ。
人は傷ついて悩んだから、人の痛みがわかるようになるのだろう。
がむしゃら走ることも大切かもしれない、それでこそ見えるものがあるかもしれない。
けどその先にあったのは、人を思いやらないとダメだという根本的な人間の義務だった。
そして自分が穏やかでいるために、古民家で玄米を食べて箒で床を掃くみたいなことをしなければならないのだと知った。
そこに生産性はない、機械の掃除機でいいじゃないかと思う人がたくさんいるのはわかっている。
お金じゃないんだよ…と一言いいたい。
僕は今満足している。
それ故にそういう生活で満足できない人とはもう合わないような気がしているが、旅をしていればいつか何処かで必要としてくれる人、必要な人と出会うのだ。
それもやっぱり経験に基づく思考と根拠であって、それを大切に生きることしか人間には出来ない。
火傷もいい。怪我もいい。事故もいい。
そう思えればすべてのものは怖くない。
人として感じる苦労や苦悩も怖くはない。
彼にそれだけは伝えられたらなと思った。
一緒に飲もうと言われれば朝まで飲むし。
僕も散々いろんな人に心配をかけたけど、ありがたかった。
けどもう大丈夫。
大丈夫だからこそできることがある気がする。
今日も1日を過ごそう。
生活をしよう。
それだけなんだ。