雪が降ったおかげで東京から山梨へ帰ることができなくなり、無駄に一泊してから帰ってきた。
まる二日家をあけたところ、猫も暇だったのか寂しかったのか隠しておいたちゅ〜るを引っ張り出して食い散らかしていた。
猫よ、このちゅ〜るはタダじゃないんだぞ。
「そんなに一気に食べずに少しずつ食べなさい」
そんな事を猫にいったところで知らん顔で積もった雪を眺めているだけだった。
ふと東京に滞在しつつ考えていたことがある。
これまでお金に困るということを僕はしたことがなく、借金もしたことがない。
例外的に会社の事業資金を借りたり、事業がうまく行かずにお金が足りなくなりそうな瞬間はあったが、なんとかなっているのでギリギリセーフといったところだ。
個人的にそういう経験をしたことがない。
それは僕個人がお金持ちであるとか、家が裕福だということでは一切なく、むしろ年収でいえばずっと240万円を下回っていた。
美容師アシスタント時代は15万円くらいだったと思う。
それで6.8万円のアパートに住んでいたのだから若干の狂気である。
それでも金欠とかを経験したことがない。
おそらく生活水準が平均的なそれより著しく低く、またそれが全く気にならない生き方をしていたからだと思われる。
三食もやし炒めご飯でも気にならなかったし、飲みに行きたいけど居酒屋に行くお金もないので後輩誘って真冬に雪のふる中外でビールを飲んだりしたこともある。
一応社長6年生の今でもたいして変わらず、先日買ったコートはハードオフで1100円だった。
会った人に「オシャレなコートだね」と褒めてもらったのから別におかしくはないのだろう。
飲みに行くならなるべくハイボール190円の居酒屋を探していくし、新幹線より高速バスややすい飛行機を使ったりもする。
どうしても使うべきだという瞬間以外は基本的に超質素なのである。
生きていくことにお金をかけるというのがなんだかバカバカしいとさえ思い、質素な暮らしで満足できるならそれに越したことはないと思うし、それが足りるだけの収入があればもうそれでいい。
お金に対する重要度があまりに低く、執着がなく、今でもそうやって生きているのはやっぱり自分が貧乏を経験して慣れてしまったからなのかなと思っていた。
けど最近ちょっと思うところがあり、哲学的にその理由を考えてみた。
昔のことだが、ある時お金とは何かを論理的に考えてみたことがあった。
その時導いた答えは【簡略化】であった。
つまりお金とは共通言語なのだ、と。
どうしても、ちゅ〜るを猫にあげたくなったとする。
ペロペロ食べているところを動画に撮りたくて撮りたくて仕方がない。
そこでちゅ〜るを手に入れようとするわけだが、もしお金の概念がなければ誰か持っている人から譲り受けなければならない。
「この野菜と交換してくれませんか?」
「このお水と交換してくれませんか?」
ここに共通の価値の基準がなければ、一体何本のちゅ〜ると何個の野菜を交換したらいいかわからず、いちいち交渉をしなければならなくなる。
キャベツが一玉100円、ちゅ〜るが3本で100円だとしたら、キャベツとちゅ〜るの交換は簡単に成立する。
もしくは100円があれば直接買えばいい。
そういうわけでお金、そして数字というものが存在していると思う。
つまりわかりやすくするため、スムーズにするために一定の決まった数字を印刷した紙やコインを共通言語としてあらゆる物やコトの間で媒介させているのだ。
しかし哲学的に考えると、少し違う答えになる。
最近お金に困ってるという人に会った。
会ったというか元々知っている人ではあるのだが、クレジットカードのキャッシング、ラインの借り入れサービス、街金で借金しているという。
借金を返すために借金をするという多重債務者で、ズルズルいってしまうような気がして見ていて気持ちがいいものではなかった。
その人は会社に対してまあまあ悪質な裏切り行為をしたためやむなくクビにした人であり、それ故に職を失い住む場所も失い、貯金もない状態で路頭に迷うことになった。
頼れる人もおらず、親にも頼れず、結果借金が膨らんだらしい。
やったことが酷すぎるしむしろ会社が被った損害金を請求したいくらいだからそうなっても仕方がないと思いつつ、若干同情してしまう部分もあった。
ほうっておくのもなんかなと思いながら、実際は当事者としてはどうしていいかもわからない。
現代では5人に1人が少なからず借金を抱えているという。
生活に困ったり、仕事が見つからなかったり、ギャンブルだったり、見栄を張るためだったり、いろいろと理由はあると思うし、仕方がないときもあると思う。
僕は借金に関してはとてもよくないものであると認識してるから、借金をしたことはないが、そのあたりの価値観はあまり一定のものではないとは思う。
借りることが悪いとは思わない人も中にはいる。
実は本質はここなのではないかと最近は考えている。
お金は使うことによって幸せになるとかならないとかそういう話ではなく、本質的には【貸し借りするもの】なのではないかと。
というより、理屈で言えばお金は共通の媒体でしかないわけだからそれそのものを得ること自体はなんの意味もない。
そこに交換できる価値あるものがあって初めて意味を成すのだし、使う人の存在があって初めて意味を成す。
猫に小判という言葉があるが、使えない状況だったり例えば幼児など使えない人が持ってても意味がない。
本来は価値があるモノやコトやヒトや時間が取引されるべき対象であり、それを人は”貸し借り”していたのだろうと思うのだ。
そこに必要なものは本当はお金という概念ではなく、貸せるという信用である。
先日逗子に海を見に行った。
海辺を散歩し、夜は横浜中華街でよくある中華食べ放題のお店に行った。
2人で5000円ちょっとくらいだったと思うが、割ると1人2500円ということになる。
一緒に行った子の分も僕が出した。
なぜかというと、シンプルに奢るに値する人物であったというだけなのだが、その根底にあるものは何かと言うと信用なのである。
中華料理というサービスにそもそも価値があり、それを僕はお金という媒体を渡すことで手に入れた。
それをお金という媒体を得ずに渡したのだ。
もしその人が僕を騙して陥れるような人物であったり、いきなりナイフで刺してくるような人物であったり、僕の最愛の猫を虐待した人物であったら当然そういう話にはならない。
なるわけがないのだ。
本当の意味での人間と人間の関係性は実は信用でしか成立しない。
そしてあらゆる価値があるものを、信用さえあれば手に入れることができるということだ。
その子は2500円を得た事と同じであり、2500円を働いて得たり借金したりする必要がないということになる。
僕はまた明くる日、横浜のみなとみらいで友達とランチに行った。
なんでもいいやと入ったお店で定食を食べた。
他の定食より300円くらい多く払えば刺し身がつくからそれにした。
もちろん自分で払うつもりだった。
しかしお会計のときに出してもらってしまった。
これもその人が僕のことを信用してくれていたから起こった出来事であり、僕は1300円ほどの価値をなんの苦労もすることなく手に入れてしまったのだ。
「なぜ人を騙すのはよくないのか?」
「なぜ嘘をつくのはダメなのか?」
「なぜ人を裏切るのはダメなのか?」
「なぜマナーやモラルを守る必要があるのか?」
これらはその誰かが迷惑を被ったり、泣いてしまったり、苦しんだり、最悪死んでしまったりするから。
ただその裏側には「あなたの信用がなくなるからですよ」というものがあるのだ。
誰からも信用がなくなれば、あらゆるモノやコトを得るためにお金がたくさん必要になる。
たくさん働き、たくさん得なければ定食も中華料理も食べることができないのだ。
逆に人から信用されれば、お金なんかなくても生きていけると極端なことを言えばそう思う。
哲学的に言えばお金とは信用の化身なのだろう。
信用を印字した紙であり、それはそれぞれの関係性、つまり信用の度合いによってその額は0が1つも2つも変わってくる。
この人には1万円を奢ることが高いかどうか、その価値観の差は信用の差なのだと思う。
すると「信用って何?」という疑問も生まれてくる。
僕の言葉を持ってして言えば、それは言魂であると考えている。
言葉とは人間が口から出したり指を動かして生み出すものであるが、それそのものは人の魂から出ていくものである。
好きという言葉も、嫌いという言葉も、その瞬間の感情に左右されるものだとしても根底には魂がある。
その人がどういう生き方をし、どういう風に世界に対して生きようとしているのか、そういったもので魂は作られる。
喜び、憎しみ、楽しみ、悲しみ、あらゆる感情と感動。
そして経験。
そこから絞り出された言葉は時に自由に旅をし、時にぶん殴るように相手の耳や目を通して魂に届くのだ。
人と人との間に媒体として存在しうるもの、その唯一のものが言葉なのである。
人+言で信という言葉になるが、重要なのはその言葉がなんであるのかということ。
つまりその言葉を発する魂、受け取る魂がどのようなものなのかということによる。
人を平気で裏切り、人の心を踏みにじることをなんとも思わず、損得勘定で生きようと考える人はどういう言葉を発するのだろう。
それがあまりに汚いと自分でわかっている人は嘘をつく。
もしくはあまり言葉を発さなくなる。
嘘つきは嘘をつくことが当たり前なのではなく、そうしなければ社会に馴染むことさえできない状態なのだと思う。
嘘が嘘だとバレてしまえば、信用には傷がつく。
それをわかっているから、嘘っぽくない嘘をつき続けるしかなくなる。
信用に傷がつけば得られるものがなくなり、お金がどうしてもたくさん必要になってしまう。
相手のことを考え、利他的に物事を考え、自分の損ばかりを考えずに人と接することができるような人は、人にどのような言葉を投げかけるだろう。
ありがとうやごめんなさい。
素直な言葉ではないだろうか。
あまり理屈っぽくもなく、難しいものでもなく。
シンプルに自分の気持ちを伝えられる人の言葉。
自分の想いをきちんと言葉にしようとする人の言葉。
上手い、下手ではない。
言葉や文字もツールである以上技術や知識でクオリティはかわる。
だけど本当に伝えたい気持ちは下手くそな文章だろうと、支離滅裂な言葉だろうときちんと伝わる。
そうした言魂で行うコミュニケーションこそが人間が人間らしく生きるために最もやるべきことなのだと思う。
そうすればあらゆるモノやコトは巡ってくる。
そしてそれをまた誰かに渡していくのだ。
中華料理を奢ってありがとうと言われ、定食を奢ってもらいありがとうと言う。
「次回は僕が出します」とまた会うきっかけも生まれる。
また、一方通行でも構わないという関係性もある。
絶対に返ってこなくてもいい。
高菜先生にちゅ〜るを買うのはそんな構わないという気持ちがあるからだ。
あなたがそこにいてくれれば、あなたがあなたらしく生きててくれれば、それで。
親が子に抱く愛情だったり、恋人に抱く感情もそれに近いものがあるのだろう。
なるべくなら、そういう関係性がたくさんあったほうがいい。
そういう関係性をたくさんつくる生き方をした方がいい。
そうすれば困ったときにはいろんな人が助けてくれる。
借金をする前に仕事を任せてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり。
僕はその恩というものを、旅をしながら初めましての人からも受けて生きてきた。
なるべくならそれを生きてるうちはたくさん返さなければならないと考えている。
そういう状態に嬉しくなる。
いろんな人が僕を信じてくれたからだ。
だからたくさん信じられる人もできた。
仮に貯金がまったくなくて仕事がなくても生きていける自信があるのは、そういったこれまでの自分の生き様を自分自身で信用できるからなのかもしれない。
だから困るということが僕はもうないと思う。
感謝すること、人に優しくすること、そういうことがとにかく大切で、それが信用を作り生活を豊かにする。
お金の正体はその信用であり、優しさなのだと思う。