「うわぁ」とか「おぉ」とか全然言わなくなった。
最近冷めてんなと思うことが増えてきたというか、いろいろ知りすぎて感動が薄れてしまったような気がする。
つまらない人間になったと思うと同時に、それがとても楽だったりはする。
「なんでもいい」と思えるということは見栄もプライドもだいぶないと言うことであって、それは寂しいことではないのだと今は思う。
サンダルで出かけることが嫌じゃない。
着る服もいつも同じ。
新しい街へ引っ越してきた今、テーブルのかわりにダンボールを使っているけどもうずっとこれでもいっかと思えるくらいにはなってしまった。
ただ物足りなさや社会とのつながりの上で自分が何者かでいたいというか、外面というものはやはり持たなければならないんだなと思うようにもなってきた。
新しいアイデンティティになり得るものというか、私はこういう人間ですよと都合よく一言でいえる何かがほしい。
社長だといえばいいのかもしれないが、それはなんというかインスタグラマーだとかユーチューバーだとか言うのと同じで「なんの?」という部分がないただの外枠なのである。
だからやりたいことってのがやっぱり大切なんだろうなと思うのだ。
よくやりたいことをやって生きていきたいという言葉を聞くと「みんな同じことを思うんだな」という感想が出てくる。
僕自身もそうだったし、高校生と話していてもそれは同じだった。
それはそうだろうと思う。
やりたくないことだけやって生きていきたいなんて思う人はいないだろうし、やりたいことをやって生きていければ楽しいと思うだろう。
でも多くの人はやりたいことをやって生きているのではなく、やりたいことがわからない状態のまま過ごしている。
中にはやりたくないことを渋々やって生きている人もいるだろう。
10代だろうと30代だろうと、学生だろうと主婦だろうと。
「やりたいことが見つからない」と口々に言うが、本当にそうなのだろか?
僕の考えとしては、やりたいことがないというよりは”本当にやり続けられるものと出会えてない”ってことなんじゃないかと思う。
それは子供ほどそうだと思うが、大人の場合も当てはまらなくはない。
そして大人の場合は過去に出会えたし続けてこれたのだけど、何らかのきっかけがあって飽きたり辞めてしまったというのがある。
就職、転勤、結婚、出産、ケガや病気。
何かのきっかけにより価値観の変化が生まれ、やりたいことができなくなってしまったというより”やりたいこと”でなくなってしまった。
それらがなくなったときに何かポッカリと心に穴が空いたような、そんな状態になってしまう。
日々の時間の埋め方がわからない。
それを埋めるため強制的に人は変化せざるを得ないのだけど、実際は周りにある様々な事情により動きづらかったりしてどうしていいかわからなかったりする。
奇しくもその様々な事情というものは、これまで自分自身が”やりたかったこと”としてやってきた結果として生まれたものだったりするのだ。
モノ、家族、趣味、人付き合い、仕事など。
現実的に今在るものや有るものとの関係性を簡単には無視できない。
何も手元になければ、ただやるだけなのに。
かつては誰もがそうだったはずなのに。
けど今在るものは苦労して続けて得られたものだから、それらを捨てるなんてことはできない。
そうなると人はどうも誰のために生きているのかよくわからなくなっていき、次第に【自分らしさ】を失くしてしまったような気持ちになり、鬱っぽくなる。
アイデンティティってなんだっけ?って。
ここはどこ?私は誰?と。
なんのために働いてるの?今、と。
そうして「やりたいことがないんです。探してます。日々つまらないです。」と言いながらも何もしない日々を過ごすことになってしまう。
これは30代でも50代でも関係なく訪れると思うし、僕にもちゃんと訪れた。
やりたいことをやろうというのは”未来のことを考える”ということだ。
ただ、この未来という言葉が意味するものが若い世代の頃とは変わっていて、なんせ”距離感”が圧倒的に違う。
15歳の10年後はまだまだ25歳だ。
25歳の10年後は夢や希望ばかりだろう。
35歳の10年後はもういいオッサンである。
45歳の10年後は下手したらなんらかの病気になっているかもしれない。
どのステージに立っているかで明日というものの価値が変わっていく。
だから貴重なのか、だから無謀なのか。
だけど何かはやらなければいけない。
その何かがわからない。
これは長寿化の弊害だったり経済社会の弊害というか、現代病のようなものだと僕は思っている。
昔はおそらくそんなことを考える必要がなかった。
30代とかになって「やりたいこと」ってどうしたら見つかるのか?
ここには1つの自分なりの結論はある。
その前にまず、実はやりたいことなんてものはもう無いのだ。
そんなものはもうない。
ある程度思いついたことは10代20代でやってきているはずだし、もしやり残したことがあったとしても”なんだかんだそれをやらなかった”という事実は大きい。
これまでの人生でチャンスはいくらでもあったはずなのにリスクだなんだと結局やらなかった。
それはそこまで本気になれなかったもので、すでにやりたいことではなく「やってみたかったこと」でしかない。
そう考えると、もう30歳にもなればすでにだいたいのことはやり尽くしてしまっている。
だからおそらく結婚や出産を経験してない女性の場合、それらを強く望むようになるのだろう。
男の場合は社会的に地位がある立場だったり周りが羨むようなキャリアだったり、そういう対外的な部分への想いが強くなっていく。
男は外へ、女は内へ。
これはどうしようもない遺伝子の命令なのだと僕は思う。
人間の宿命だろう。
それでいて社会的なことや生物的なことを無視した、イチ個人としての”自分自身の感情と哲学”との兼ね合いもあるから、余計にモンモンとした悩みばかりの状態になってしまう。
僕なりの答えというのは、それでも何かをやるしかないだろうということだ。
結局、もうそれしかない。
やってみなければわからないのは何歳になっても同じなんだと、35歳になってみてわかった。
50歳になっても同じことをきっと言うだろう。
大切なことはとにかくプライドを捨ててでもやってみることだと思う。
やってみなければ好きか嫌いか、いいか悪いかもわからない。
先日メッセージをくれた高校生から「やりたいことはどうやって見つけましたか?」と聞かれたから僕は上記のようなことをざっくりと五行くらいにまとめて答えた。
高校生には五行にまとめられるのに、自分のこととなるとダラダラと書いてしまうのは一体何なのだろう。
文字を打ちながら思っていたけど、むしろこの問題は僕と同世代やそれ以上の人に当てはまることなのだ。
母になったり、父になったり、部長になったり、引っ越しをしたり。
誰かと付き合ったり、離婚したり、転職したり。
ある程度もうやっただろう。
その上でまだ何かを探している。
実は人生の豊かさとは、途方もない時間をどう埋めるかにかかっている。
豊かになるためには「なにしよう?」の答えを見つけなければならない。
やりたいことで日々が埋め尽くされれば、それが何であろうと自分自身は幸せでいられる。
ただここで1つ重要なことは、やり続けることができるかどうかである。
やり続けられるものでしか、虚無を埋めることはできない。
ほんの少しの心の隙間を埋めてくれる人と出会っても、それはバンソウコウのようなもので、風呂に入れば剥がれてしまう。
かと言って嫌なもの、辛いもので埋め尽くせばその時間そのものに耐えられなくなるだろう。
何も知らない子供ではないのだから、今やっていることが好きか嫌いかを理解してしまうということはある意味で残酷なのかもしれない。
結婚したいと思っても、やりたいことをやりたいと思っても、人から認められる仕事をしたいと思っても、それは結局のところ出会いでしかない。
概念との出会いということだ。
目に見えてるようで見えてないそれらとどのようにして出会うのかは、ただ街をふらつけばいいというものではなかったりする。
新しいものを買えばいいというわけではなかったりする。
その概念と”お近づき”になるには、その概念に飛び込んでみるしかない。
そのために圧倒的に【やめる】ということが重要になる。
なぜなら周りに色々あるのだから、そんなにもう詰め込むことができない。
一歩踏み出そうと思ったら何かをやるというより、やめるのだ。
最近僕は毎日毎日、朝5時とか6時に起きて玄米、梅干し、納豆、卵、味噌汁、むしり取ったモロヘイヤなどを食べているだけど、そういうことなのだと思っている。
朝ご飯を食べないという生活をやめた。
朝ダラダラゴロゴロするのをやめた。
体に気を使わないことをやめた。
続けた方がいいと思うことを続けるということは、やめた方がいいと思うことをやめるということだ。
そしてその概念の中に沈み込んだときにその先に何らかの光のようなものがあるのかもしれないし無いかも知れない。
ただ、むちゃくちゃに探し回るよりは遥かに効率的なはずだ。
僕らはもう友達だらけの学生でもなければ渋谷のクラブで夜な夜な踊り狂うこともできないステージに来てしまった。
このステージで出会える概念なんて、もうそう多くはないと思う。
その中で何と出会うのか、何がやりたいことになっていくのか。
実はすでにある少しだけの信じられるものこそ【やりたいこと】なのだろう。
あらゆるマイルールが削ぎ落とされ、なんとなく手元に残っている少しの事実がもうすでにやりたいことの種のようなもので。
僕はそれが”信仰”というものなのではないかと思ってる。
信じるということは人+言であり、人間関係においての信用の度合いというものは人と人とを仲介する媒体としての言葉がどれほどたくさん行き来したかによると思う。
わかりやすく言えば、たくさん話せば信用できるということ。
それは人以外の物事、概念との関係性にしても基本的に同じことである。
「猫がかわいい」「捨て猫を助けたい」「猫のためになるようなことをしたい」
「玄米を食べたい」「玄米の良さを伝えたい」「梅干しや納豆という文化は素晴らしい」
自分がやり続けることを口に出すこと。
やめたことを口に出すこと。
それは自分という1人の人間と言葉との調和であり、自分自身を信じるということだ。
そうしてその概念に入り込んで生きていると、猫が好きな人とどこかで出会うのだろうし、日本の文化を守りたい人と出会うのだろう。
出会った人が猫が好きなのではなく、猫が好きな人と出会うのだ。
人との出会い、仕事との出会いも同じことである。
10個以上の事業を作ってきて、様々な仕事をやってきた中で思うことは、アイデアやチャンスともそれは出会いと言えることなのだ。
スパイスのことを口に出せばいつの間にかスパイスの仕事ができてるし、それはもうそういうものだと思う。
そこにお金が結びつくのだから、仕事や経済なんてものはカラクリを知ればなんてことはない。
困ったり悩んだりするものではなかった。
そういうことを考えるとたぶん30代以上のほとんどの人にとってはすでにやりたいことは見つかっていて、やるべきことも見つかっているのかもしれない。
その概念に入り込むために、続けるために、何をやめるか。
何をやめるかは今目の前に【在るものと有るもの】の中から選ぶことになるが、本当に残すべきものも中にはあるはずだ。
それこそがこれまでの人生で得られた宝。
それらを大切に思い感謝をするということが一つ一つの歴史との結びつきなのであって、まず最初にやるべきことなのだろう。
新しいことをドカンと始めるイメージで誰もが10代20代を生きてきたから、どうも派手にしなければならないような気がするし、僕もそう思っていたけど、そんなことはなかった。
足るを知るということが、とても大切なのだとある時気がつくことができた。
何歳になっても少しの発見で人生は変わる。
人は意外と自分のことをよく知らない。
まだ知らない自分と出会うために、何かを始めてみるのではなく何かをやめてみるのもまたひとつなのかもしれない。