『僕は”弱い自分”を恥ずかしがらなくなった』

最近すごく思うのだけど、昔に比べてだいぶ弱くなったような気がする。

いや、もともと強かったかと言われれば謎なのだが、昔よりは繊細になった気がする。

たぶん僕は今”裸”に近い状態で生きている。

次に攻撃されたら終わるとまでは言わないが、かなり直接的にダメージを受けるというイメージだけはちゃんとある。

だから様々なことが怖くなった。

今まで生きてきて、当たり前だけどいろんなことがあった。

理不尽なことも散々経験したが、打ちのめされる度に僕の外側を包む何かがちゃんと僕を守ってくれた。

幼い頃は親だったのだろうが大人になるにつれ作り上げたプライド、つまり肩書や知識や技術などがその都度守ってくれたのだと思う。

それゆえにそういったプライドという防具を作るのに躍起になっていたかもしれない。

いろんな経験をしてきたからわりと35歳までにボコボコにやられてしまっていて、今はもう身にまとう最後の装備がないに等しい。

自分を守るものが何一つない裸の状態で、もしもここが相変わらずの戦場なら僕はすぐにやられてしまうだろう。

生き方を見直したいとここ1年ほどよく考えるようになっていたのはそのように弱体化しているなという感覚になっていたからかもしれない。

僕は逃げることにした。

もう戦うような場所にいたくない。

別に戦場でなければ鎧も防具も身にまとう必要はなく、そこが川なら裸で泳いでいても問題はない。

要はそれで生きていけるのかという話なだけだ。

生きていければなんでもいいのだとしたら、 人はどんな生き方でも生きていけるとは思う。

ただ戦っている人たちからは確実に距離を置くことになる。

わかりあえることもなくなるだろうし、戦わず生きるなんて弱くて卑怯な生き方だと罵られるかもしれない。

けど正直それでもいい。

子供の頃からずっと疑問だったけど、なぜこの世は争うことがベースになっているのだろう。

スポーツをやっていれば必ず順位がつくし、学校のテストの成績でもそうだ。

勝ち負けにこだわり、敗者にはなんの賞賛もない。

社会に出ても売上や顧客数で優劣をつけられ、給料も左右される。

売上がある人が優秀で、その人のやり方がもてはやされる。

“経営戦略”だとか”企業の生存競争”だとか、経営にしたって戦うことが常識になってしまっている。

疑問だった。

なぜだ、と。

一言でいえば資本主義の仕組みがそういうものだからなのだが、疑問だろうがなんだろうがそれに則って生きるしかないと思っていた。

だけど、いつしかそうやって生きることだけが全てではないだろうと思うようになって僕は世界を放浪したりもしたけど結局またその戦場に戻ってしまっていた。

社会のシステム上そこから脱して生きていくことはとても難しい。

というより無理だ。

何らかの戦いは避けては通れないし、それが現代では”生きる”ということを意味する。

その中で有名になる人だとか、もてはやされる人はやはり”強い”のだ。

強くてカッコいい。

30代になり、同世代の独身女性が口を揃えて「やっぱ経済力大事だよね」と言ってるのをよく聞く。

昔はカッコいいとは単純にイケメンだったり足が速いことだったりしたのだろうが、ある程度の年齢をすぎるとその戦場の中でいかにうまく立ち回れているかが重要になるようだ。

もちろんイケメンでムキムキでお金持ちなら一番いいのだろうが、そんなのカレー味のラーメンにハンバーグと寿司と天ぷらがトッピングされているようなもので非現実的すぎるのだ。

美味しそうどころか逆にマズそうまである。

持論ではあるが、カッコいいとは不自然なことであると思う。

みんなが学ランのボタンを全部閉めている中で2つほどボタンを開けているのがなぜかカッコよかった。

あくまで僕の時代の話である。

みんなが黒髪なのに髪を染めているとカッコいいみたいなのもあった。

学生も社会人も競争社会の中でトップを目指すのは、それがカッコいいと思うからだろう。

賞状も賞賛もない4位以下が圧倒的多数な中で1位なんかはとても不自然だ。

マイノリティ。

マイノリティだから希少価値が上がって、なんかすごいような気がしてくる。

ただそれだけだと思う。

もしもみんながみんな学ランの第2ボタンまで外していたら、ズボンくらいは脱いでいたかもしれない。

みんなはそこまではやらない。

そこまでやるクレイジーな奴が”イケてる”ってことになるのだ。

自然のなかで不自然なことをする。

それは自然の中で過ごして初めて成立するということだ。

周りに学ランを着ている人が一人もいない中でズボンを脱いで第2ボタンまで開けてる奴がいたらただの不審な人物だ。

誰も社員がいないのにたった一人で「俺売上一位だからさ」とか言ってるホストや美容師がいたらどうかしてると思うだろう。

競争しているから初めて一位やマイノリティに価値が出るのであって、圧倒的多数の普通の人がいないと結局のところ価値もクソもないのだ。

今の世界ではみんながみんな競争しているからこそ、そういったところに価値が出るのだろう。

それが強さだと認められるし、カッコいいともてはやされる。

ただそれが人の本質ではない。

周りに誰もいないとき、人は頑張るだろうか。

周りに人がいないとき、人は化粧をするだろうか。

誰も働いていない世界で、年収を自慢するだろうか。

よほどクレイジーでない限りそんなことする人はいない。

つまり人は本来不自然なことをわざわざしないということだ。

わざわざカッコよくある必要はない。

カッコいいと思う人がいるから、カッコいいが成り立つというだけで。

今どこに立っていて、何と戦っているのかによって人の価値など簡単に変わってしまう。

立つ場所がそれほど重要なのか?

戦うことがそんなに大切か?

最近の世の中ではそんな疑問が湧き出てきているように思う。

少しずつだけど。

圧倒的自然の中で不自然なことを頑張って、そうして初めて価値に目覚める時代をこれまで生きてきたけど、それももう終わるのではないだろうか。

なぜなら多くの人が疲弊している。

戦うことにそれほど意味がないことも薄々気がついている。

男は大黒柱、女はキレイであれ。

そんな概念との決別は、もしかしたらまだ逃げだと言われるかもしれない。

みんなはがんばって働いてる。

みんなはがんばってキレイにしてる。

なのにあなただけがそれを怠ることは卑怯でズルいことだって、誰がが言うかもしれない。

だけど本当の人の価値は周りと比べて希少だから生まれるのではない。

お金や見た目で測れないものこそが本当の価値だと思うけど、それはキレイごとで片付けられてしまう。

そんな中、戦いを避けて生きるようになってきた僕は最近見た目がとてもショボくなってきた。

同じ服を着回している。

服を買わなくていい、何を買うか考える必要もなければお金もかからない。

朝服を選ばなくていいのは本当に楽でいい。

おしゃれかカッコいいかはわからないけど、同じコートを毎日着ることをまったく恥じてはいない。

昔は毎日違うコーディネートで生きていた。

靴も何足もあったけど、今は革靴1つとサンダル1つ。

サンダルでどこへでも行ける。

それにケチをつけるような人がいたとしても怒りも羞恥心もない。

「ああ、あなたは卵焼きにケチャップをかける派なんですね。僕は醤油です。」というだけの話だ。

ご飯も食べたい物がほとんどなくなってしまった。

玄米、味噌、納豆、卵、梅干し以外はなんでもいい。

居酒屋に行っても唐揚げでも枝豆でも漬物でもなんでもいい。

なんでもいい、選ばないということがあまりにも楽なのだ。

お金もあまり使わないし、お金そのものも仕事もなんでもいいと思うようになってきた。

あまりにも昔と違う。

いろんな人と競争し、結果にこだわり、ジャケットの色や靴の種類にこだわり、居酒屋では唐揚げと明太ポテトチーズとアボガドを頼むことに僕はこだわっていた。

明太ポテトチーズとアボガドを頼んでおけば女の子は喜ぶと思っていたからだ。

モテたいという願望が僕に好きでもない明太子とチーズとアボガドを注文させていた。

今は「なんでもいいよ」しか言わない。

それで「何コイツまじわかってないわ」と思われてもいい。

「ああ、あなたは唐揚げに付属してるパセリを食べない派なんですね。僕はいきなり最初に食べる派です。」というだけだ。

着飾らない生き方が今はとてもしっくり来ていて、僕はこれからはそっちがスタンダードになっていくのだと信じている。

なんかもう競争社会に少し無理があるというのも1つだが、カッコいいの定義が不自然なことから自然なことに変わっていってる気もするからだ。

普通と同じ、周りと同じことがそもそも自然体なのではないと気がつく人が増えてきた。

よく見れば葉っぱも猫もそれぞれが全く違う。

それらをよく見て気がつくかどうかの問題で、薄目で遠くから見れば確かにそれはみんな同じに見える。

1つだけ色が違えば目立つに決まっている。

だけどゆっくりじっくり見る時間や余裕があれば、本当は自然とは全部違うものなんだと気がつくことができる。

経済や社会も、そして人もそれは同じだ。

元々持っている特徴だったり人となりというものが自然であり、その自然のままに生きている人のほうが実は素敵だよねっていう価値観になっていく人が増えてくと思う。

そうしたときに頑張って戦って、競って、上を目指すことだけではなくまた違う生き方も確立されてくるだろう。

僕はお先にそっちに行ってようと思っている。

それは猫に学んだことだった。

今頑張りすぎてわけわからなくなっている人はもしかしたら自然体をテーマに見つめ直してみるといいかもしれない。

僕が言ってるからどうとかではなく、これは世界の新しいテーマだと思う。

そう変わってくるというのが、1つの時代なのだろう。

仮に世界がどうであれ、同じコート着てサンダルはいて玄米食ってボチボチ働いている人のほうがカッコいいと僕は今は本気で思っている。

そういうのをカッコいいと思う人も増えてくると信じている。

なので表面的なこと以外で人の魅力が表現できるようになると思っていて、その手段はおそらく外見やファッションだけでは表現できないと思う。

生き様や仕草、そして言葉。

僕は言葉はこれから本当に大切にしたほうがいいと思う。

結局お金や成績だけで人を選んでも、みんな失敗してる。

それだけで人の心のスキマが埋められることはないと、もう歴史が証明してしまってる。

それよりも寄り添う時間、余裕、そして放つ言葉。

人の心を動かす言葉は戦場では決して生まれていない。

それもまた歴史が証明しているのだ。

一言でいい。

何か心に残るような言葉をいえる人間に僕はなりたい。

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