今思ってること。
とても大切なことだから書くことにした。
昔から「ギブアンドテイク」ではなく「ギブアンドギブ」な生き方が絶対にいい!みたいなことをブログに何度か書いてたけど、なんかそれを改めて確信したという、恩とお金の話。
ベトナムに来て思い出した昔の自分
ベトナム中部の大都市ダナンを離れて小都市バンメトートにやってきたのは昨日のこと。
台風の直撃を避けて南下したのが吉と出て見事な快晴だった。
今僕は街からかなり外れたところに滞在している。
見るからに田舎で、道も舗装されてないところがあるし、人も家も少ない。
ニワトリが放し飼いにされてたり、ヤギが草を食ってたりするその光景になんか癒やされる。
牛の散歩も見た。
牛のスピードに合わせて後ろからゆっくりついていく牛飼いのオジサンにとってはこれが日常なんだろう。
ベトナムにはじめてやってきたのは2014年の7月のことだった。
その頃僕は極貧一人旅をしていて、100円のご飯をケチって15円のパンで我慢したり、宿は500円以下と決めて高いところは意地でも泊まらなかったし、観光もろくにせず、タクシーも一度だって乗った記憶がない。
僕は基本的に貧乏人だった頃のクセが染み付いているのかあんまり高級なものとかに興味がない。
実際今も嫁がいるにも関わらずご飯は屋台が多いし、ホテルもだいたい安いところだし、タクシーは乗るけどそれでも昨日は10kmくらい歩いたし…
根本は変わっていないけど、以前とは余裕が全然違う。
世界一周に出たとき、僕は90万円くらいの予算があった。
多いか少ないかはおいといて、とりあえず持ってることは持ってた。
ベトナムは日本の3分の1程度の物価なので、その大金を持っていることを考えたら全部が安く感じた。
でも僕は使わなかった。
いや、使えなかった。
どこまで続くかもわからない旅、先が見えない中で、増えていかない資産で生きていかなければならないことがとにかく不安だった。
どこまで使ったら”使いすぎ”なのかはわからないけど、とにかく使いすぎないようにといつも心配していた。
そんな事だから、その後どこの国へ行っても、ずっとそんな感じだった。
そんな僕は旅先でいろいろな人に助けてもらった。
例えば泊めてもらったりとか、ご飯をごちそうになったりとか。
もしくはモノを貰ったりとか。
恩を受けた。たくさんの。
でも僕はそれをその人たちに返して来なかった。
旅が終わる頃なんかそんな自分が気持ち悪く感じるようになった。
それは”帰国という終わり”が見えてきたときからだった。
帰国=仕事を始める
だったから、今残ってる資金がなくなっても最悪大丈夫だと思えるようになった。
旅の最後の方で行ったインドネシアで泊めてもらったフランス人の一家に手巻き寿司を振る舞ったのが思えば最初の直接的な恩返しだったような気がする。
お金はなくなったけど、なんか嬉しかった。
それからさらに1年半がたった今心の余裕がかなりできたように思う。
相変わらず貧乏くさい生活や旅をしているけど、今までよりはお金の余裕もできたから恩を受けたいろいろな人に返しはじめるようになった。
意味のあるお金の使い方をしたい
昨日歩き疲れて夕方路上に椅子とテーブルを並べただけのやっすい屋台みたいなところでビールを飲みながらキャンベルにこんな話をしていた。
「意味があるお金の使い方をしたい」
例えば10000円を使ってバッグを買ったとしたら10000円を失う代わりに10000円相当のものが手に入る。
その行為自体には何も感じることはできない。
だけどもし誰かから「これよかったら使って」と10000円相当のバッグをもらったとしたら、それは単なるプラス10000円なのだろうか?と考えたときに違うという答えが僕の中にはある。
10000円に”恩”が乗っかってきてる。
バッグを使うたびにその人のことを思い出すだろうし、感謝は忘れられない。
それはお金以上の価値があるということ。
見返りどうこうではなくて、人に与える事で恩が生まれる。
その恩に恩を返していくことがとても大切なことなのだと思う。
ギブアンドギブとはそういうことで、そういう中で生きることが僕の理想だったりする。
3年前ベトナムに来たときはそう思えてなかったけど、今はすごくそう思ってる。
世界でもそうだけど、日本でもお金でモノを買うのは当たり前。
まぎれもないギブアンドテイク。
ではモノを与える場合はどうなのだろう?
例えば結婚式のご祝儀も本当はお祝いの気持ちなのに形式的に「渡す」のが当たり前で、また貰った側も「返す」のが当たり前になっている。
お中元もお歳暮もそう。
何かもらったらお返しするのが当たり前。
お返しが来なかったら「なんだアイツ」ときっと思う。
それもつまりギブアンドテイクなんだと僕は思う。
また、与えられる側も職場や学校の先輩、もしくはそうでなくても年上とご飯に行くときは「きっと奢ってもらえるんだろうな」と少なからず思う部分はあるはず。
結果「割り勘ね」と言われてガックリした経験はあると思う。
なので年上の人や先輩が後輩に奢ることや、昔で言えば男は女に奢るものみたいなやつとか、ご祝儀とかってある種の義務的な要素があるようにも思える。
返ってくる前提、そして貰えるはずという前提の上で成り立っている。
かと言ってギブアンドギブが全くないわけではなく、先輩が後輩に「こいつがんばってるからな」とかそういう応援の気持ちでおごってくれたり、出会ったばかりの人にでも本当に見返りを求めず与えてくれる人もたくさんいる。
かつて日本全国を旅したときに出会った人からたくさんの恩を僕は受けてきたから、そういう暖かい人がいることを僕は知っている。
誰しもがそんな優しさをもってるし、優しさに触れて生きてきたはず。
でも、それはあくまで”お金があって与える余裕がある人”がやれることで、少なくとも「貧しい人」はそういうことをしないという認識だった。
実際僕も以前の長期旅以外でも日本で極貧生活をしてた時期が2回あるけど、まっっったく余裕がなかったし、人におごるとかあり得なかった。
お金の余裕=心の余裕というのは、それはきっと正しい。
でも僕は世界を旅する中で、何度かお金の余裕がなさそうな人から与えてもらった事がある。
特に先月行ったフィリピンで出会ったホームレスの女性にご飯を分けてもらった事は衝撃的だった。
なぜホームレスである人が「どうみても自分より裕福」である僕にモノを与えてくれたのか?
その人たちには「お金はなくても何かを与えよう」という心の余裕があるということを意味してる。
お金云々ではなく、そんな心の余裕を持つにはどうしたらいいのか?
そんな事を飲みながら話したり考えてたりしていた。
その時…
ベトナム人3人組との出会い
僕達が飲んでたテーブルの横では同い年くらいの男の子達が飲んでいた。
そのうちの1人が突然話しかけてきた。
「Where are you from?」
「日本だよ」と答えると「オー!ザパン!」とか言って隣のテーブルからコチラに移ってきた。
僕はそういうの大歓迎だから一緒に飲むことにした。
ベトナムでは乾杯のことを「ヨー!」と言う。
しかも10分に1回くらい乾杯をするもんだからずっとヨーヨー言っていておもしろい。
ヨーをして飲むたびに彼らが頼んだビールを僕達についでくれた。
ところで彼らは全く英語が話せないようだった。
グーグル翻訳を片手にいろいろ質問をしたりされたり、身振り手振りで伝えようとしたり、間に「ヨー!」を挟んだりしながら何とか会話みたいなことをしていた。
お互い言いたいことの10%くらいしか言えなかったかもしれないけど、すごい楽しくて気づけば2時間くらい一緒に飲んでいた。
9時を過ぎた頃、彼らが店員にお会計してくれと合図を送った。
僕がグーグル翻訳で「How much?」と見せると、1人が同じく翻訳で「each」と返してきた。
eachとはおのおのみたいな意味なので、つまり割り勘なんだと僕は認識した。
たぶんあちらの方がたくさんオーダーしてるけど楽しかったからまあいいか(笑)と思ってお金を渡そうとすると「No!No!」と言われ、僕は意味がわからなかった。
どうやらeachは「僕達が割り勘で君らのぶんもだすよ」という意味だったらしい。
「いやいや、払うよ!」と食い下がったが、最後まで受け取ってくれなかった。
そして見せてきた翻訳の画面に書いてあった言葉が「Celebrate」と「Remember each other」だった。
出会いを祝おう。お互い忘れずにいよう。
そういう事だったらしい。
ベトナム訛で「See you again!」そう言って笑顔で彼らは帰っていった。
まさにそんな話をしていたときの出来事だったから、本当に驚いた。
帰りながらキャンベルは泣いていた。
今僕達に必要なのは心の余裕
僕は今回ベトナムに来てからまだ髪を切っていない。
雨だったのもあるけど”切りたい”と思う場所や人々に出会ってないからだった。
以前世界一周していたときは公園や人が集まるところであればどこでも良かった。
でも今はなんか違う。
僕は貧しいと言われる地域で暮らす人に会って、その人たちの髪を切りたいと考えている。
ベトナムは急激に成長している国とは言え、まだ世界的に見たら貧しい国だそうだ。
特に田舎の方には貧しい人が多いという。
なのでバンメトートに来てみた。
どんな出会いがあるかはわからない。
ただ、そういうところへ出向き、そこで生きる人たちとハサミをきっかけにたとえ言葉がわからなくても語り合いたい。
そして「心の余裕」をもっと教えてもらいたい。
今人々に必要なのは「心の余裕」なのではないかと僕は思っている。
お金があるとかないとかではなく、人に与えることができる余裕。
「心の余裕」があればお金でもモノでもあげることができる。
そして「恩」は一緒に乗っかっていき、受け取った人は感謝をする。
受け取った人に「心の余裕」さえあれば、その感謝は感謝だけで終わらずに与えてくれた人、または別の人に返そうとする。
その連鎖がきっと幸せを生むと思うし、その連鎖の中にいれば少なくとも気持ちは裕福でいられると思う。
僕は今までたくさんのギブをされていたから、これからどんどん返していこうと思うし、自分からギブアンドギブの第一波を作っていきたい。
貧しい地域に行ってボランティアをしたり、寄付をする事は誰にでもできる。
僕にしかできないこと、僕にしか与えられないことはなんだろうと考えたら、それはヘアカットによる対話。
それで何かが生まれると信じて今活動をしている。
来週はホーチミンでスラム街と孤児院を2件まわることが決まっている。
時間があれば西部の貧困層が住む街にも行こうと思ってる。
…
お金は使っちゃいけないと思いこんでたあの頃の僕は、自分のことで精一杯だった。
与えられても、感謝はしてても自分はお金がないから返そうという発想にさえならなかった。
それまでずっとそうやってお金に縛られ、お金に依存し、お金のために生きていた気がする。
でももうそれはやめようと思った。
生きることに余るほどのお金は必要ない。
大切なのは「心の余裕」と「人のつながり」だけだ。
必要以上の貯金とか、お金に依存してなんでも心配してしまうのは先が見えない不安からくるものかもしれないけど、もしかしたら逆に人にたくさん与える事でその不安は消えるのかもしれない。
見返りを望んでいなくても、気持ちが伝わればいつかそれは大きくなって返ってくる。
ゴチャゴチャ考えずに、ただ純粋に「大切なこと」に目を向けて生きていったほうがきっと幸せになれる。
ギブアンドテイクはその場で完結するけど、ギブアンドギブに終わりはない。
そんな事を思った夜だった。