旅から帰ってきて3日が経過した。
あんまやることがない。
9/8の夜に帰宅してからのことをちょっと書いてみようと思う。
愛する猫との再会
家に帰り、いの一番に「たかにゃーん」と。
すると高菜先生がよってきた。
おおおおひさしぶりすぎる…。
16日ぶり。
久しぶりすぎて忘れられてたらどうしようかとビビって帰ってきたから、覚えていてくれたようでほんとによかった…。
それからというものひたすらモフる。
モフもふもふモフモフモフモフモフモフ。
16日分モフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフ。
段々顔がキレてる感じになってきて、手を引っかかれた。
そしてどっか行ってしまった。
すごい久しぶりこの感じ。
しかしまた5分くらいすると戻ってくる。
そしてまたモフモフモフモフ。
可愛すぎて辛い。
マグロ買ってこなくてごめんね。
なんだかんだ旅から帰ってきた日は疲れていたのかビールも飲まずにすぐに寝てしまった。
高菜先生と一緒に。
そして翌朝…。
幸せである。
朝まで腕枕。
彼女か。
起きても布団でゴロゴロゴロゴロもふもふモフモフモフモフも。
旅しているとこれができないのが最も辛い。
猫のせいで旅がしづらくなってしまっているのは事実だ。
様々な依存性物質がこの世にあるとおもうけど、動物も物質であるし猫は依存性が高い物質であるということがわかる。
しかし中毒的なものではないので安心安全。
むしろ精神を病んでいる人を猫に依存させたら余裕で立ち直ると思う。
もしかしたら猫は宗教みたいなものなのではないか。
心の支え的な。
おお神よ…
箱に入っていらっしゃる…。
箱と体のサイズが微妙にあっていないから箱が歪んでる。
「タイトなダンボールにねじ込む、ワタシというワガママボディ」
BOAも驚きである。
マルちゃん焼きそば塩
このダンボールが神の最近のお気に入りらしいのだが、もう一つ変な棚の下のところもお気に入りらしい。
神よ…。
旅から帰ってきて思ったこと
今回は改めてこの世の中にはびこるわけわからないルールとか常識というものを考えさせられた。
旅をしながら「これから何をしていこう?」というような自分探しという側面もあったから、そういうことはずっと考えていた。
どうしてもハッキリとしたものはまだ見つからないのだけど、やっぱり前提としては”自分が興味がある”というものが大事になってくる。
- 歴史
- 料理
- 音楽
などたとえばこのようなものは興味があるし、好きなものであると言える。
旅の間、緊急事態宣言によってそのどれとも触れることが難しかった。
歴史や音楽…それらは大きなカテゴリで言うところの文化である。
今僕たちはコロナコロナと騒ぐあまりその文化を壊していっているのだと思う。
たしかに病気になることは困る。
それは理解している。
ただずっと引っかかっているのは”感染”という言い方である。
これはまさにゾンビになった奴を感染者というゾンビ映画と同じ感覚で、それが一般化されていることがすごく不思議に思う。
インフルエンザが流行っても感染者とはやっぱり言わないのだ。
インフルエンザ患者数などと統計データでもでているように、わざわざ感染者と言うことには意図的なものを少なからず感じる。
感染者といえば怖い感じがする。
それに現在の数字ではなくずっと累計で数字が出ている。
山梨県は累計4000何人だとか。
そう見ても人口83万?くらいいるので多くはないと思うけど、リアルタイムでは100人です発表するのというのとでは受け取るイメージが違う。
怖いから恐れてくれというようなことだと思うが、恐れるあまり一見さんお断りだとか県外ナンバーに石を投げたりとか東京の人には近寄るなとかそういうことを正当化してやってしまう人がいて、さらにそれがまかり通ってしまっている。
状況が状況だから仕方ないと、人を批判することが当たり前のようになっている。
そしてそれをはたから見ていても何も感じない人もまた多く、それ故にどこかでヒズミが起こっていると僕は思う。
そのヒズミがやがて文化消滅に繋がってしまうのではないか。
そんなことを思う。
なんでもかんでも不要不急というのはある種の思考停止と同じなのではないか?
コンサートやライブがだめだというニュースもあったり、いろいろとある。
やり方が問題あるのかもしれない。
確かに不急かもしれない。
でも決して”不要”ではないのだ。
北海道へいってアイヌの歴史を学ぼうとした。
3年ほど前にアイヌが民族として認定された(これも変な話だが)ことにより、北海道や樺太にはアイヌ民族が従来住んでいたということが正当化された。
開拓100年を過ぎてからのことである。
“開拓”というのは日本人の目線、都合であるが、アイヌ人からしたら領土を奪われたとも見方によっては言えてしまう。
植民地なのか開拓なのか、これは全く意味合いが違う。
韓国も中国も、だから何十年と経っても怒っているのではないか。
それが正しかったか、間違っていたか、そういうことは世界の様々な国々の問題や歴史を見ても解決することは絶対にないだろうと思う。
ただそれでも当事者として日本人としては知らなくてはならないこともあるのではないだろうか。
文化として、歴史として。
その上に今が成り立っていると思うからこそ、知るべきだし、知ろうとするべきだと思う。
博物館や資料館はそういった過去の出来事、文化、歴史、リアルな生活を伝えてくれる場所である。
それが不要不急と言って閉められている。
どこもかしこもやっていなかった。
厳密に言えば”閉めさせられて”いるといえる。
閉めたくはないけど、企業として周りの目も気になるし、まわりと同調しなければいけない雰囲気もあるからだと思う。
飲食店や居酒屋などは休業要請があるならまた別かもしれないけど、自主休業というのは必要なのだろうか本当に。
全てのことにはお金がかかる。
なぜなら今は資本主義社会だから。
その中で休業するということがどれだけ辛いことか、負担が大きいか、これはオーナーなど当事者にしか絶対にわからないことだと思う。
そうして廃業、倒産が増えていったら誰がその大切な歴史や文化を伝えてくれるのか。
誰かが代わりにやってくれるのか。
そんな事は絶対にない。
だから不要ではないのだ絶対に。
飲食店だってそうだ。
料理という文化を味わえる場所、伝えられる場所である。
ありとあらゆるエンターテインメントもそう。
アートもそう。
あれはだめでこれは良いという差別や区別は理にかなっているとは思えない。
だめなら全部ダメというくらいしないと、おかしいと思う。
この世の理不尽さや矛盾というものは少し視野を広くすると強烈に感じる。
守るべきものとはなんなのか。
当面の秩序なのか、メディアなのか、金銭などの財産なのか。
文化とは人であり、人は文化で形成されている。
僕は文化こそ最も大切で守るべきものであると思っている。
不要不急不要不急と飲食店に行かない。
閉めてしまう。
開けても来ない。
そうしていれば地域のことを語れるおじさん、郷土料理を出すおばあちゃん、そういう人がいなくなってしまう。
コロナがそのうちどうにかなろうとも、その店の明かりが灯ることは二度とないのかもしれない。
不要不急だとさわぎながら、人のことを批判しながら、スーパーへは行く。コンビニへは行く。
なぜなのか。
なぜそれは不要不急ではないのか。
なぜ、閉めないのか。
資本があるからじゃないか。
生活に直結してるという大義名分があるからじゃないか。
生活に必要な”風”なだけで、本当はスーパーもコンビニもなくても生きていける。
その影で街の八百屋や魚屋が消える。
なんでも便利で安ければそれでいいのかもしれないけど、そのぶん文化は消えてしまっている。
「時代の流れ」
そういえば聞こえはいい。
納得できるような気がする。
だけどこのまま何十年とたった日本には便利さ以外にどんなものが残っているのだろうと考えてしまう。
たしかに様々なものは不急なのかもしれない。
でも決して不要ではない。
これだけは間違えてはいけないと思う。
今不要だと言われるものほど必要で、真理だから。
便利なものだけが必要なのだとしたら、それはもう生きているというより生かされていると言えるのかもしれない。
何が大切なのかは人それぞれだと思うし、何を言うかも自由だと思う。
理解をしてほしいとは思わない。
だけどどうしても今は異常だと思ってしまうし、もう1年以上ずっとそう思っている。
これが当たり前にならないよう願う。
地域の歴史を次の世代へ伝えることも、地域に根付いたサービスをおこなうことも本当はとても大事なもの。
その人にしかできないことかもしれないし、それを必要としている人が必ずいる。
働く側としては便利さや利益の追求ばかりではなくそういう事をちゃんと考えていきたい。
そしてそういうお店を利用したいし、また旅に出て様々な地域でその地のことを学び、聞き、考えたい。
今回旅をしていて強くそういうことを感じたし、それ故にこれからやりたいこともちょっと見えてきた。
今後はしばらくその新しい活動について突き詰めて考えて見ようと思う。