ちょっと経営的かつ人生的な話を…
美容師の平均年収は280万円と言われていて、国家資格の仕事としては実質最下位である。
美容師の平均年齢が30歳ということを考えると、今の僕くらいの年齢でそのくらいの年収だということ。
僕がサラリーマン美容師をやっていた20代前半の頃はそんなに貰えなかった。
忘れもしない初任給は13万くらいだったかな。
東京下北沢で家賃68000円のところに住んでいて、カツカツな生活をしてた。
肉が買えなくて、手羽先の持つとこ詰め合わせ買ってしゃぶってたり、マジでパン屋でパンの耳もらってマヨネーズかけて食ってたからね。
そういうのに慣れてしまっているから、お金がないと生きていけない的な感覚はいまいちピンとこないものがあったりする。
どういう生活をしたら月に30万も40万も必要になるのか?というのは、謎だったがもし年収500万…つまり月収40万くらいの仕事についていたらそれなりに高い家賃を払ったり、もしくは車を新車で買ったり家を買ったりということはするのかもしれない。
余裕があるから使ってしまえと。
それ故にランニングコストがかかるようになってくる。
生きるだけでお金がかかる。
だから高年収の仕事をやめられなかったり、そういう仕事を探したり。
もらうから使い、使うからほしい。
こういうループが出来上がる。
会社から高い給料をもらうという経験をせずに独立した僕はそういうことをした事がない。
できなかったという方が正しい。
だからたぶんお金を使うこと、作ることには世間一般とちょっとした視点のズレがあるように思う。
ある前提か?ない前提か?
経営していく中での大前提として、収支というものがある。
収入=売上
支出=経費
ざっくりとこういうことになるわけだけど、収入が多ければ黒字で反対は赤字。
シンプルなものである。
“年収500万円”
仮にこの数字を売上としよう。
※本来は税金などが引かれて手元に残るお金が所得…つまり手取りという言い方をして年収は引かれる前の数字なのだけど、ややこしいと思うので年収500万=手取りの意味ということにここではしてしまう。
経費が年間500万かかったとしたら赤でも黒でもなく貯金もできないということになる。
それが良い悪いということはさておき、状況的には「売上が500万円あるから500万使える状態である」ということになる。
使えるから、使う。
あるから使う。
それそのものを”余裕がある”と人は言うと思う。
余裕があるから使う。
当然といえば当然なのかもしれない。
そのうち使っているお金の中で絶対に必要ではないはずの固定費というものがでてくる。
入ってくるのだから多少固定しても問題はないという発想。
これで僕も経営者として失敗した経験がある。
新しく家やら事務所やら借りたときの家賃や、無駄にでかいマンションに引っ越して上がった家賃なんかはそういうものだけど、例えば家を建てたとしたらそれもそうだろう。
家のローンが年間180万円。
必要か不必要かは人によると思うが、空き家が溢れまくっている状況を考えると100%絶対的ではないのかなということは思ったりする。
個人的には。
とりあえずこういうものが固定費になる。
車のローンも同じで、今は中古車が10万で買えるがもし新車を買うと月々15000円を払うことになる。
家と車2つを合わせると年間200万円が固定費になってしまう。
それだけでもし年収280万円の美容師だったら普通に生活ができなくなってしまうが、年収500万なら余裕なのだろう。
しかしそういう状態で無職にでもなろうものならやはり焦ると思うし、だから”計画的に貯金”というものをするのが当たり前になっているのではないかと思う。
よってそういう生き方の場合は貯金の重要性と優先性がすごくあがる。
貯金をすることが1つの目的になりうるだろうし、そのためかつ生活を維持するために仕事をするということが仕事をすることの理由になり、より重要になりそして目的になってくる。
仕事の時間が人生の大部分をしめ、大いに時間を使うということが当たり前になってくる。
これがごく一般的な社会人が歩む道なのだと思う。
- 仕事する
- お金がもらえる
- 使う
- 固定する
- 稼ぐ必然性があがる
- 必然的に働くことに時間を固定
こういう流れが一般的かつ昭和的であると僕は思っている。
あるから使うという発想が根底にあるとすると、なくなったときに困るということが大前提になってしまう。
どうしてもスタート地点がそこであれば【なくなる恐怖感】みたいなものがつきまとう。
そしてコロナみたいな有事のときは、”急になくなる”という事態が簡単に起こる。
だから僕はそれをリスクとよんでいる。
安定した供給というのは絶対ではないのだから、そこに依存しすぎると破産することも十分あり得る。
例えば自動車会社が不景気で車が売れないという理由で下請け工場との契約を切ったら、下請け工場は仕事がゼロになる。
従業員もいて、場所代などもあれば入るものがなくて出てくものしかなく、もし上から仕事をもらう以外に仕事が作れなかったとしたらいずれ破産してしまう。
それと同じことなのかなと。
「そもそも無かったら?」を発想のスタートに持ってくるとどうだろう。
僕自身お金に関してまわりとちょっと考え方が違うというふうに思うのは、そのスタート地点の違いによるものなのではないか?と自分の中では思っている。
その思考というのは身についているものであり、その理由はド貧乏生活を何度も体験しているからであると思う。
【無い】を経験している。
無かったら…使わない、使えない。
これもまたシンプルな話であるが、もしそれで満足ができるのであればそれでいいのではないかと思う。
ホームレスとかそういう話ではなくて。
日本は高度経済成長とバブルを経験して染み付いた”高すぎる最低限”みたいなものがあると思う。
親世代から脈々と受け継がれているその”最低限”というものが結構ドエライ。
車は新車で買うもの、家は建てるもの、結婚式はあげるもの、葬式は何百万とかけるもの…などあげたらきりがないけど、ただ単に生きるということはもっとシンプルでいいのに、そのハードルがあまりに高い。
もはや時代錯誤なものも多々あるし、変な常識となりつつあることだってある。
親世代が動向ではなく、ただ単に昭和と令和は時代背景が違いすぎるということ。
そもそも様々なことに不必要なお金をかけすぎてるのではないかという話で、もし最低限の限度が低かったとしたら美容師の年収280万円だって、フリーターだって十分に楽しく生きていくことはできる。
パン耳ド貧乏生活を推奨しているわけではないが、一般的に貧乏だと思ってる生活感って実はそんなに悪くないのではという。
だって二世代前より以前は人はずっとそうやって生きていたのだから。
時間はどんどんなくなる
1つ結論づいていることとしては労働ベースでの売上(年収)と時間の因果関係。
売上や年収を追い求めれば自然と時間を使うことになる。
効率が仕事の種類により違うから比例するわけではないが、労働をベースにした場合は売上や年収があがるごとにやる事がふえる。
つまり仕事が増え、仕事をする時間が増える。
売上(年収)の数字に固執しすぎると、自由に使える金額は大きくなるだろうから豊かになった気はするけど結局の所自分自身はあまり大切にできなくなる。
そういう物だと思っている。
お金があるから使う→使うから必要になる→使うからもっと必要になる→時間がもっとなくなる
家があっても、車があっても、家族と遊ぶ時間もなければ友達と飲みに行く余裕もない。
疲労感がハンパじゃない。
そうなってくる。
そういう生活感が一般的だし、親もそうして僕を育ててくれたのだと理解はしているけど、もっと違うやり方をすればいいのでは?ということは10代の学生の頃からずっと思っていたことだった。
大人になればなるほど拘束されるというか束縛されるというか、実は子供の頃のほうがよほど自由なのではないかと子供ながらに思っていた。
昭和の時代、尾崎豊は子供は自由がないような感じで言っていたが、たぶん今の時代そんなことはない。
何が言いたいかというと、収支のバランスがどうこうではなく、収入ありきの人生観っていうのは今後通用するのだろうか?という話。
つまり一般的である【お金がある前提】で生きていくことは今後持続可能なのか?という。
エスディージーズ的な。
僕は通用しないし、無理ゲーだと思っている。
なぜかというとこれからは【無】が重要になっていく時代だから【有】をベースとした様々な概念や思想は時代そのものの感覚とズレてしまう。
見て嗅いで触って聞いて舐めて。
そういうことができないからこそ、【無】の真意は理解しづらい。
売上ありきの経営も同じことだと思っている。
美容室は利益率5%あればいい方と言われているが、言い換えると95%は経費でありそのうちの何%かは固定費である。
売上が無くなったら終わってしまう。
もし売上が無くても成立するようにするにはどうしたらいいのだろう。
コロナで突きつけられた1つの課題はその【生産とはなにか】ということであり、売上がなくて破産してしまうシステムそのものは実際本質的な生産活動であったのだろうか?という疑問を生んだ。
生産とは100の売上を作って95%を消費することなのだろうか?
そこから一体何が生み出されているのだろうか?
なんらかの原因で破綻するシステムということであればそれはバグと言える。
バグは修正するか、システムのアップデートを行わなければならない。
本当の危機はここの部分にあるのでないのだろうかと僕は考えている。
なぜかというと人間そのものがそのシステムによりバグってきているから。
お金を求めて働いて、時間がなくなり精神がすり減り鬱になったり自殺したり。
根底には幸せになりたいとか自由になりたいとかポジティブなものがあるはずなのに、なぜか泥沼。
これは社会のシステムのバグ、そしてエラーによるものだと言える。
個人がどうのこうのというレベルの話ではない。
もしも家がただでもらえたら
それでも働きますか?と問いたい。
家だけでなく、もし超最低限ではあるけれど生活費が一切かからない生活を手に入れたとしたら働きますか?と。
それでも働く人は生活費稼ぎ以外の明確な使用用途や目的があるのだと思う。
そうでなければ働く必然性はごく薄くなる。
働かなくていいのであれば、時間ができる。
時間ができれば今までやっていた事やらなくてはならなかったこと、つまり労働から開放され、きっと少し心は楽になり「暇だし何をしようかな?」と考えるはず。
それがつまりある種の【無】の状態なのではないかと思う。
その【無】というものは何かを生み出す理由になる。
無いから考える。
無いから作る。
それが生産なのではないのだろうか。
昔というか、人類はずっとそうやって生きてきたはずなのに、今はなんでも有る時代になってしまっている。
有るから買う。
有るから使う。
有るものを有るにするためにはお金が必要になる。
その際共通認識というか、互いに交換できる等しい価値の物体が必要になり、これがお金という概念が存在している1番の理由である。
そのただの交換チケットであるはずのお金そのものがそもそも必要で稼ぐべきだという考えにズレていったのが現代の常識となっている。
稼ぐために時間を使う。
触れることができる物が目の前にあって始めて価値が生まれるという時代に生きてきた僕達にとって、物体としてのお金や物体そのものの重要性はとてつもなく高い。
しかしこれからは価値観の逆転現象が必ず起こる。
なぜなら今は資本主義の末期だからだ。
システムエラーがおこっているから。
資本主義の世界観では物やお金に価値があるから、【所有】という行為そのものにも価値が出る。
だからトラブルが起こる。
金銭トラブルしかり、窃盗しかり。
法に触れるものでなくとも、価値があるからゲインしようとする。
人間の理性さえ壊す。
しかしそういう生き方にもう限界が来ているのではないかと感じている。
でなければなぜみんな貧困貧困というのだろう。
日本には絶対的貧困層(所得がマジでない人)はほぼいないのに相対的貧困層(他社に比べて所得が少ない人)がめちゃ多い。
相対的貧困層=ガチ貧乏
ではないということが重要である。
相対的貧困層で、お金がないない言いつつ新車を買うみたいな矛盾が平気で起こっている。
これが問題なのだと思う。
企業の場合売上がなかったら削れる経費はとにかく削ってなんとかするということを当たり前にするのだけど、一人ひとりの生活となるとその【経費】だと【固定費】というものを見直す事が難しい場合がある。
僕自身も昔はそうだった。
なぜお金がないのにあんな事をしていたのか、あんなものを買っていたのか、あんな使い方をしていたのか、思い当たる節がありすぎる。
収入が13万だった美容師一年目の僕は68000円の家賃のところに住んでいたということを書いたが、当時は貧しいな的なことは普通に思っていた。
今となっては考え方が変わったが、その当時はあまり社会のことがよくわかっていなかったと思う。
お金の知識も無かったということだと思う。
うっすらとした疑問は持っていたけど言語化はできなかったし動けなかった。
今思うことだけど、もし当時の家賃を55000円に下げることができたならば…。
68000-55000=13000になるので収入の10%が浮く計算になる。
もし下北沢にこだわらずわずか5分離れた隣の駅であれば同じようなとこに55000円で住めた。
“無いなら無いなりに”という工夫をすれば無かったはずの13000円が有るということになってしまう。
ありとあらゆることに言えると思うのだけど、この有ると無いの逆転現象がこれから大事じゃないかと思う。
13000円をあるものにする…つまり稼ごうと考えたら、例えば時給1000円だったら13時間を使う。
しかし13000円の支出を減らせば13時間は使わなくてすむ。
スラムダンクの安西先生じゃないけど、リバウンドを桜木花道がとれば守った2点+攻めてゴールした2点で4点の働きになるというのと同じで、実質的に13000円+13時間を得られたことになる。
稼がなくていいものを稼がないので時間は増え、お金も13000円手元に残る。
つまり単に13時間使って13000円を得ることの倍の生産性であると言える。
倍の生産性があるのだから、人の倍自由な時間が手に入るという理屈になる。
これ重要だけどあまり気がついている人はいないと思う。
僕自身人生観や経営者としての発想や行動の根底にはこれがある。
なるべく使わず、なるべく働かない。
それにより生まれる【無】を重視する。
その【無】からいろんなものを生み出すことができる。
それこそが「生産とは?」の答えなのではないかと思っている。
家賃がもし13000円下がったら…この極論が家がただでもらえたらという話。
家がただでもらえたらあとは食費、光熱費、通信費などでなんとかなる。
そしたら月収10万円=年収120万でも別に生きていける。
あんまり働かなくて良くない?本読んだり、外行って遊べば?ということになってしまう。
年収500万円の人が”380万円分の労働削減”を達成したとしたらもはや革命なのではないだろうか。
時給3000円が時給800円になって年収が減ったという話ではなく、時給3000円のままであったらめちゃめちゃ人生は楽になる。
もしお金がもらえたら?
自分でもドン引きするほど前置きが長くなったので、次回後編に続く。
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