たまに発症する『ヒトリゴト言いたい病』に犯されました。
ブログもかれこれ4年半書き続けてるけどたまーにどうしても書く気になれない時期ってあるんだよね。
そんな時にヒトリゴト言うと治ったりする。
別に誰に見てもらいたいとかではないんだけど…。
ここ3ヶ月くらいかなぁ。
めちゃくちゃモヤモヤする事があって。
『この方は何を言っているのだろう』と思うことが増えた。
1人2人なんてもんじゃない。
なんか怒ってて、なんか主張してくる。
その内容というのは決まって『お前は…』という様なもので、僕の行いが気に触るとの事で。
僕のことを慕ってくれてた風だった年下の彼も、なんかめちゃくちゃに言ってくれたりして。
『お前は間違ってる』『お前はこうだああだ』
流石に年下だとお前とかは言われないけどね。
まあそんな事が多発していたわけです。
きっとそれは正しくて、その人の視点でみたら『間違ってる』のだろう。
でも不思議なことにそんな僕を理解して『すげーな。これってなんたらかんたら』と話を合わせてくれたり汲み取ってくれる人もいる。
不思議なもんだと思う。
本当に不思議。
少し価値観が違うだけで全く話が成り立たなくなる。
求める結果の違いなのか、過去積み上げてきたものの違いなのか、なんなのか。
人によって同じものは同じに見えない。
日本代表の試合にしたってもう『コイツ何言ってんの』とかめちゃくちゃ思う。
僕は正直あまり興味なくて1試合目も2試合目も結果はニュースで知った。
ただオリンピックにしてもそうだし、芸能人にしてもそうだけどああいうステージに立てる人は皆ヤバイ事をやってきてる人だ。
美容師でも歌手でも同じ。
人前に立ち、ステージに立ち…
そんな事は何もしてない人にはできない。
だからそういった意味では選手一人ひとりの実力は知らずとも自動的にリスペクトだ。
3試合目は誘ってもらってバーで見た。
日本は負けたけど勝ったのだ。
最後のパス回し、僕はすごいなと思った。
日本代表はベスト16を手にするために運を味方にするだけでなく、感情ではなく戦略で動いたのだ。
そんなんできひんやん、普通。
僕はゲーマーなのでウイニングイレブンやるのだが、4-0で勝ってても最後まで攻める。
だってパス回ししててもつまらないもん。
だけどこれはゲームではなく、リアルな試合。
敗退すればそれで終わり。
もしかしたら選手としての世界大会もこれで終わりという人もいるだろう。
そのステージに立つ人の気持ちがわからず、外野はいろいろと言ってしまう。
ワールドカップが始まる前は『日本はオワコン』『敗退』『興味ない』的な声はよく聞いた。
でも選手が行動で結果を変えたら見る人々の目も変わったのだと思う。
そして勝手に期待値を上げてしまい、なんとなく意にそぐわないことを選手がやったもんだから『あれはない』『最後まで走れ』『クソみたいな試合』などと好き勝手なことをもっともらしく言ってしまう。
見た目は悪いかもしれないけど、日本代表があの選択をしたことで僕を含む多くの日本人が次の試合を見ることができる。
無かったかもしれない未来がそこに有るのだ。
それを素直に喜ぶこともなく、巧みなまでの手のひら返しからの褒めると見せかけてディスるというハイレベルな技をかます人人人…。
そこまでのスケールの大きさはないけど、自分の状況とも少しかぶってしまった。
物事に対して、人それぞれ求めるものはきっと違うと思う。
目的や方法も違うと思う。
まずその意識を統一することはできない。
そしてその意識を他人に強制することもできない。
ご飯を食べること1つとったって、太るために食べる人、痩せるために食べる人、健康のために食べる人、野菜しか食べない人、肉は鳥しか食べない人などいろいろな人がいる。
それを統一することはできない。
サッカーもそう。
なんでもそう。
誰かの理想は誰かの不幸だったりする。
それは当たり前のこと。
僕は問いたい。
では人はどうあるべきか?
価値観の違う人を丸め込もうとするのが正しいのか、またはそうして従うのが正しいのか。
違う。それはまじで違うと思う。
僕の中で持つ答えは2つしかない。
『一緒にいたいなら理解できなくても認める』
『それが出来ないなら離れる』
それだけ。
価値観が違う人とは一生わかり合えないと思っている。
自分の親でさえ、嫁でさえ、よくわからないことはある。
例えば10円の価値は人によって違う。
この世には10円が落ちてたら拾う人と拾わない人がいる。
そういうお金に対する価値だって、時間に対する価値だって人によって違う。
結婚式、車、旅行、美容、通勤、ランチ、服、全部人によって違うんだ。
そもそもそれらを統一したり強要したり、違えば批判したりする事自体おかしすぎると僕は思う。
世界を旅したからかもしれない。
宗教で人をわけたり、肌の色で人をわけたり、アイデンティティで人をわけたり、歴史的にはそうであったが、そんな事は非常に馬鹿げてると思う。
人の価値はそのようなものでは決まらない。絶対に。
みんな口ではそういうだろう。
『差別反対』『ヘイトスピーチ反対』
でもそれは実際に起こる。
サッカー日本代表を応援してたはずなのにちょっとのことで『クソやな』とディスれる人間がこの平和な国日本にも溢れかえってる。
それは【理解できない=認められない】からだと思う。
それでいて何故か離れないからなのだと思う。
僕自身の生活も、仕事も、価値観も、人付き合いも刻一刻と変わっていく。
変わらない生き方を選ぶ人もいる。
1年前と今日とでやってる事や考えてる事がほぼ変わらない人もいると思う。
それが悪いとは思わない。
でも理解はできない。
僕は”変わりたい”し、いろんなことに興味があるから”変わってしまう”ところはある。
だからぜんっぜん理解はできないけど、そういう友達もたくさんいる。
別にその人の人生だから、友達だから、理解はできないけど一緒にいたいと思うから認める。
それでいいんじゃないかと思うわけ。
僕は4年前は世界で1000人の髪を切るとか言ってて、3年前は日本でビールが飲めるサロンをやるとか言ってて、2年前は美容師のコミュニティ作るとか言ってて、1年前は毎月海外に行くとか言ってて、今は山梨でゲストハウスやサロンや居酒屋やってウユニ塩湖に引っ越すとか言ってて。
1年後はどこで何言ってるかは自分でも想像がつかない。
言ったことはやってきたつもり。
振り返るといろんなモノと記憶がある。
それを変えたり捨てたりしながら生きている僕をブレてると思うのならそれでいいと思う。
理解はしてくれなくて別にいい。
認めてくれないならそれも別にいい。
怒りもしない。
それでも僕は生きていくし、時間は流れていく。
黙って去っていく人は止めない。
手のひら返しにも何も思わない。
ただ噛みつかれたりしたら、もうその人の事は信用はできなくなる。
それでも怒らないけど。
心の中でサヨウナラをするだけ。
サッカー日本代表の人は大変だろうなぁと思う。
すごい事をすごいと思ってもらえず、理解してくれないだけでなく文句まで浴びせられる。
ものすごい数の。
みんながみんなもっと人に干渉しない世の中になれば生きやすいのになんて事を思う。
ネットがどれだけ発達しようとも、人一人が本当に大切にできるのなんてせいぜい10人かそこらだと思う。
もっとそこに純粋に向き合って行きたい。
僕は神でもピエロでもない。
100人も1000人も幸せにはできないよ。
ヒトリゴト。