川の流れのように流れゆく自然にただ身を任せ、旅をすることに憧れたときもあった。
「風に吹かれてあの国まで」
ずっと続く道を歩いているとき、国から国へまたぐとき、遠くへ向かうバスに揺られているとき、そんなときにふと頭をよぎる。
その言葉に心ふるえる瞬間とは旅のいたる所で出会えた。
そんな瞬間が旅の切なさのようにも思え、それが旅の美しさのような気がして、そんなことに嬉しくなりながら、ボロボロのバックパックと様々な想いを背負い旅人はどこか誇らしげに歩みを進めるのだろう。
非現実的な”旅という世界”を渡り歩きつつ、ただ実際には川の流れに身を任せるなんてことはできなかった。
危険もあるし金銭や方法の問題もある。
現実的に物事を考えて決めていくことは感傷や感動とはほど遠い行為だ。
非現実の中のそんな現実の中で垣間見える非現実といった小さな世界がどうにも普通に生きていたら手の届かない場所にあるなにか特別なモノのように思えた。
そういった感動を文字で形容する。
そういうことを9年前に始めた。
今も日々文字を書き続けている。
言葉には人を動かす力がある。
それに早めに気がつくか気がつかないか、死ぬまで気がつかないか気がついて言葉を意識するかで世界は大きく変わると思う。
9年という時間の中で強くそう感じて生きてきたから今もこれからも文字を書こうとするのだし、旅をしようとするのだと思う。
言いたいと思う気持ちと自然と出てくる言葉は魂。
伝えるためのワードはセンスではなく知性。
相手にあわせるのは品性。
文字に起こすのは技術。
それがインターネットの力を借りて縦横無尽に自由な旅をする。
僕が自然に身を任せて旅をすることはできなくても、僕の魂と言葉は流れに身を任せて自由に世界を旅している。
そこに僕は僕の人生を委ねているのだ。
僕があるから言葉があると思っていたけど、言葉があるから僕があり旅ができるのかもしれないと今は思う。
実際に9年間、ほとんどの仕事は自分の書いた文字から生まれてきた。
ほとんどの人との出会いも文字から生まれてきた。
これからもそれを続け、新たな旅を始める中で作られる未来はどういったものなのだろう。
いつかその未来が文字になり、また新たな旅と出会いを生む。
そうしているうちに死んでいくだけなのだろう。
多くを望まなくとも、多くを得なくとも、今すでにあるもので十分旅はできる。
生きていくことができる。
意外とそれは、ある程度生きてきた人間誰もがそうなのかもしれない。
際限なく望み続ければ人は盲目になる。
ただまっすぐ続く何もない道が怖い道に思え、何もない景色がつまらないように感じてしまうのかもしれない。
それを美しいと感じられる子供の心を持ち続けるためには、余計なものを持たないことが大切なのだと思った。
旅人はあまりいろんなものを持ち歩けない。
その代わりにいろんなことを感じることができるのだろう。
景色を写真で見ることやネットで見ることはベッドの中でもできるようになった。
ただそこの感情は、見る者に委ねられる。
そうではなくて”見た者”の感情を伝えようと思ったらやはり言葉しかない。
生きているうちに僕のやるべきことは、感情を文字にして自由に旅をさせることなのだとようやく本気で思えるようになった。
髪を切ることでもギターを弾くことでも経営をすることでもなかった。
伝えること。
ただどこにどう伝わるかまではわからない。
言葉が自然に、自由に旅をするのだから。
そこに乗っかる僕は、ようやくかつて憧れていた川の流れのように流れゆく自然にただ身を任せ、旅をすることができるようになったのだ。