『震災を経験してない僕らができることって何?』5年後の3月11日に福島に行って思ったこと。

 

昨日の朝(12日)僕は福島県から東京に帰ってきた。

仕事のあいまで東北まで行ってきたんだ。

 
11日は皆さん思い思いに過ごしたことと思います。

いろんな事を思ったんだと思う。
 

僕もそうでした。

 
『5』という数字のせいなのか、なんとなくお祭りのようになった今年の3月11日。

みんながみんな一斉に3月11日にむけて『何か』をし始めた。
 
まるで何かに操られたように。
 

2月の終わり頃から「震災についての取材が東京からたくさん来ている。感動話、ネタを探している。」みたいな記事やSNSでの投稿をチラホラ見かけるようになったんだ。

僕も“震災の日にわざわざ行った”とあればその類だと思われるかもしれないが、一応それは否定しておこうと思う。

 
何故いったか?そしてなぜこの記事を書くのか?

 
実はそれは自分のためだったりする。

書いたから何になるのかっていうのはわからないけど…。

震災以降、毎年3月11日付近にはブログかフェイスブックか何かにその日思ったことを書いている。

別に意味はないかもしれない。

忘れるわけなんかないんだけど、いろんな事を思い出すために。

自分のために。

なんとなく…書かなきゃなって…。

 
 

今回福島の地に立ったのは、2014年に旅に出る直前に行ったきりだったから丁度2年ぶりだった。

その頃書いた記事と、その後1年たってペルーにいた時に書いた記事もあるから良かったらこちらも読んでいただきたいのだが、僕は前から震災というものにいろいろと影響されてきた人間だった。

2014,3

東日本大震災から三年たって思うこと。過去と現在と未来。

2015,3

東日本大震災から四年たって思うこと。

  

 
皆さんにとって、震災とは何なんだろう。

 
たぶん、そんな事は聞くだけ無駄なんだと思う。

 

だって、福島県がどこか知らない日本人がいるんだから。

地震があったなんて9.11同時多発テロみたいにテレビの中の出来事のようだと思ってる人もいる。

もしくはどこかの国の内戦か何か。

全く興味がない人もいる。

身内をなくした人もいる。

1回ボランティアをした人もいる。

未だに復興支援をしてる人もいる。

東電からお金をもらって生活している人もいる。

そういう避難者を非難する人もいる。

 

様々だ。

 

 
僕にとっては、自分の人生について深く考えるきっかけになった事だった。

そして多くのことを経験するきっかけになった事だった。 

人間の死について深く考えるきっかけになった事だった。

 

震災の”おかげで”僕はたくさんの事に気づくことができ、変わることができた。

人生が変わったと言える。

でも、今思うとそれは決して自分だけの力ではなかった。

 

 

・・・約5年前。

震災のあと、東京で仕事も金もなく、ギリギリの生活を送っていた僕はいわき市へと向かった。

キャベツと食パンと寝袋と服と少しの金だけ持って。

自身がボランティアするような状況ではなかったが、むりやりボランティアをしに行ったのだった。

公園や駐車場で野宿をしながらのなれない作業。

まわりはオッサンやおじいちゃんだらけだったから、グループ最年少だった僕はめちゃめちゃ体を動かした。

もちろんキツイ。

それに加え、目の当たりにした”被災地”はテレビで見るよりも生生しく、テレビでは伝わらないニオイや、人から聞いた話は想像を絶するもので、体は日に日に疲れていった。

心の余裕・・・。

そんなモノがだんだんなくなっているのは自分でもわかった。
 
 

そんな中で偶然にも同じグループで作業した福島県出身の人と仲良くなった。

いわき市出身の人達だった。

 

 
その時の縁で、僕はその人達を頼りに何度も何度も福島県を訪れることになる。

時にはボランティアに、時には観光に、時にはただ酒を飲みに。

いろいろな福島の”今”を教えてくれた。

 
 
 

そしてあの東日本大震災から5年後の朝、僕はその人たちと福島県いわき市にいた。

かつてボランティアで出会ったその友達と”福島県を北上”するためだった。

 

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特に意味はない。

 
それはそうだろう。

 
ただのドライブと特別変わったことはしないからだ。

 
車内は別に重苦しい雰囲気でもなく、むしろ笑いまくっていた。

 
 
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とある展望台につき、穏やかな海を眺める。
 
 
『この海が…』

 
なぜかそう思わずにはいられない。

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東北の冬は寒い。

3月といえどまだまだ雪は降ったりもする。
 

あの日も雪が降っていたそうだ。

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展望台にいた可愛らしい猫の写真をとり、その場を後に。

 

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いわき市はガラッと変わっていた。

 
 
5年前僕が砂を掻き出したあの家も、あの魚の腐った臭がすごかった工場も、作業の合間に歩いたあの道も、奈良からきたボランティアのオッサンと花を供えた石も、「昨日あそこから遺体が見つかった」と言われた家も全部なくなっていた。

 

無くなっていたのではなくて、埋められていた。
 

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3年前に来た時は、まだ家の基礎は残り、道も堤防もそのままだった。

ここ2年の間に海辺は”防災緑地”にするためにかさ上げされたそうだ。

 
かつての街の上に何メートルもの砂を積み、新しい土地を作る。

そこに道路をしき、車を通す。

何年かしたらここが公園になるそうだ。

そして海よりもっと離れたところに街を作るそうだ。

もう震災前の街に戻ることは二度とない。
 

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岩手県、宮城県でも同じことが行われている。

 
 
もうかつての街はどこにもない。

 
同じ場所に家が立つことも、もうない。
 

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新しく作った街からは海を見ることさえもうないだろう。

“山の向こうに海”というような状況になる。

 
前から決まっていたことだし、今後の津波対策のためには必要なものだから仕方ないにしても、なんか自分の中ではかさ上げされた新しい街の様子は衝撃的だった。

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いわきから国道6号を北上。

 
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広野町、楢葉町から富岡町に入り、かつての警戒区域、そして通行止めだった大熊町、双葉町、浪江町を通過し南相馬市に向かう予定だ。

放射線量を測る機械がところどころ設置されている。

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途中、去年3月に開通した常磐自動車道を通った。

安部総理が5月までに開通を目指すと言って、結局2ヶ月早まった。

すごいことだと僕は思う。

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高速道路から下を見るとたくさんの袋が積んであるのが見えた。

これは楢葉〜南相馬あたりで、わりとどこでも見られるものだったりする。

これがなんの袋かと言うと、放射性廃棄物をいれているもの。

つまり除染作業ででた土や瓦礫を入れている袋だ。

一週間くらい前に火事になったってニュースやってたから知ってる人もいるかもだけど。

ひとつ1トン。

遠くで見ると小さいけど、近くで見ると人よりデカイ。

これが18万個もなるそうだ。

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白い服を着た作業員がそれを袋につめ、仮置き場に運んでいく。

しばらくしたら中間貯蔵施設にまた移動するそうだ。

でも、そんな廃棄物置き場なんてもんがすんなりと決まるはずもないのが現実…。

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その後向かったのは富岡。

居住制限があり、場所によって立ち入りはできるが住むことはできない街。

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3年ほど前に来た時は時間が止まった街のようになっていた。

 
津波で壊れた家が立ち並び、 駅の中には車がころがり、草が生い茂り、道路の上には家があった。

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これは今の写真だが、宮城県岩手県で瓦礫の処理が終わった2014年3月頃の話。

まだ何もされていない街があるということが、当時かなり衝撃的だった。

 
2016現在では駅舎と駅前の家が壊されて無くなっていた。
 

その先には大量の黒い袋。

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そして未来の中間貯蔵施設。

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袋、袋、袋。

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数え切れないほど、カメラには収まりきらないほどの袋の山。

これが現実なんだ…と衝撃をうけた。

 
 

 
14時40分頃。

海辺に人が集まってきた。

みんな多分おんなじことを考えているんだろう。

サイレンがなり「1分間の黙祷を」と言っているのが聞こえた。
 

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そして14時46分。

 
地震が起きたその時間に海に向かって黙祷を。

 
シーンとしている中で、白い建物から風邪がぬける音だけが聞こえた。

 
なんとも言いようのない気持ち。

 
近い言葉を使うと

 
悲しかった。 

 

 
 
その後大熊町へ

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かつて通行止めだった国道6号も、今は普通に通れるようになった。

僕は通行止めだった時に何度か通ったことがあるんだけど、その時とあまり変わっていなかった。

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ただ許可無しで道が通れるようになったというだけで、バリケードのようなものは至るところに。

それは街なかへ行かせないためのモノ。

別に防犯でも何でもない。

 
ひとつ変わったことといえば、ここでも袋に放射性廃棄物をつめていたことだった。

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福島第一原子力発電所への看板を通り過ぎ、ちょうど原発の横当たりに来た時には煙突がちょこっと見えた。

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そして双葉町へ。

 

ここでも通行止めは至るところにある。

国道6号沿いには格子がずらっと並んでいる。

家主はこの格子を開ける鍵は持っていないそうだ。

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かつて指定された警戒区域半径20キロメートルは、そのご帰宅困難区域、居住制限区域などいろいろと形を変えていった。

誰かが決めたそのラインで、人は住めるか住めないか、避難するかしないかを決められた。

“この道を境に”とか”この地域からこっちを”とか。

それはさながらむりやり緯度と経度で作られた国境のよう。

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僕が度々ボランティアをしに訪れていた南相馬市も市内で分断され、そんな感じだった。

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2年ぶりの南相馬市も他の街と同じく変わっていた。

まちなかに残された車や船はなくなり、ボコボコしてた道は綺麗になり、海辺にあった瓦礫や壊れた家も綺麗になくなっていた。

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変わった・・・

どこもかしこも変わった・・・

 
 
僕は純粋にそう感じた。

それは悪い意味ではなく、いい意味で。

停滞ではなく進歩だと思った。
 

 
ネットやSNSを見ると「震災から5年」という見出しがとても目立つかたわら、「もう5年も経つのに全然復興してない」「税金は何に使われてるんだ」「安倍がやってこい」と、こういう言葉もたくさん目にした。

 
そうなの?

 
って思うとこがある。

 
そう叫ぶ人たちは果たしてどれほどのスピードで街ができたら満足するのだろうか。
 
前例がない規模の災害、そして復興。

何を基準に早い遅いを決められるのか、その言葉を発する前に考えてみたらどうかとも思う。

地元を追われ、避難している福島の一部地域の人は「早くして」と思うのかもしれない。

 
けど、東北に行ったことないっぽい、もしくはたった一度行っただけの人がそう言うのはちょっと違う。

 

「震災から5年」

はお祭りじゃあない。

5とか10とかアニバーサリーっぽいけど。

だとしても、その日に限って震災の話題を出してみて、ついでに文句を言うっていうのはいかがなものだろうか。

  

その日に限って。

黙祷をするな!阻止!とデモをした人たち。

原発反対!とデモをした人たち。 

思い出したかのようにそれに釣られた人たち。 

ネット上で声を上げてみた人たち。

 
 

なんか少しでも、ほんの少しでもそういう人がいることが悲しい。

 
 
それこそ身内をなくした人、避難している人、住んでいたところが土に埋もれてしまった人、被災したのに補償金が出ない人などからしたら今日3月13日は震災から5年と2日目であって、昨日も一昨日も今日も明日も明後日も一年前も一年後も同じ。

 
その日だけが特別じゃあない。

だからせめて、その日くらいは周りの人たちこそそっと黙祷しておいてもいいんじゃないのかな。

 
被災地を見た時に、1年2年で元通りになるようなものではないって、ド素人の僕にだってわかった。

来年も、再来年もさほど変わらないんだろう。

でも、確実に変わっている。

もう何回目かわからないが、何度目かに訪れた今回そう思った。
 

 

次はかさ上げされた土地に防波堤か、木が植えられるんだろう。

それが少し育ってきた頃、家が作られ始めるのかもしれない。

さらに数年後、商店街ができて、銀行ができて。

そして、人が住み始めて。

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福島の友達が言っていた言葉がすごく印象的だった。

『震災から「もう5年」じゃないよね「まだ5年」。いつかいわきの海辺のかさ上げされている場所が綺麗な公園になって、街ができたらやっと「もう」って言えるよね』

 

 
 

震災はもう過去のものだ。

過去は過去。

時はどんどん進んでいく。

それに合わせて人も変わっていかないといけないのかな。

それは被災してない僕らの話。
 

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僕はいつか子供ができた時に東北の各地をまわるつもりだ。

 
自分がボランティアに行ったところ、ただ訪れただけのところ、震災前に旅をしたところを。

 
そんなところに行っては、自分の見聞きしたこと、例えば地元のオッサンやおばあちゃんに教えてもらったいろんな話なんかをするつもりだ。

 
僕は震災を”経験してない”

だからこれからも足を運ぶし、なにかできることがあると思ったらやっていきたいと思ってる。

 
 
数年前はそれを、その気持ちを人に伝えたいと思っていた。

でも、それは難しいことだと知った。

 
東京で募金を一人で集めていた時には「実際に行ったことないからそんな気持ちにならない。だからお金はいれない」とわざわざ一緒に働いてる人に言われた事もある。

 
その時はクソがって思ったが、今思うとそれがその人の本音だし、正しい選択だったんだろう。

 
知らない人に行ってくれなんていうのもバカげてるのかも。

だって僕らは神じゃない。

アレコレも、できない。

 
 
僕は世界を旅したけど、中東で起こるテロや、内戦を止めることもできなければ近づくこともできなかった。

ただスマホの前で眺めているだけだった。

なんか、リアリティがない。

その中でも僕はシリアとレバノン人の友達ができたからまた少し違う印象はあるけども。

 

 
ふと思ったんだけど、なんだかそのリアリティのなさは、震災を経験してない大多数の日本国民にとっての東日本大震災と同じなのかな。  

 
テレビ、新聞、スマホの中の出来事。

 
映画やゲームとあまり変わらない架空の話のよう。

原発を収束させるための作業員が何をしていようが、補償金をもらって避難している人が避難先の地域の人から「あいつらは金もらって楽してるだけ」と罵倒されてようが、ほとんどの人の生活にはあまり関係がない。

 
 
現実的じゃなさすぎるんだ。
 
たぶん。

 

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だけど被災地は刻一刻と変わってる。

どんどんいろんなものがなくなり、どんどん新しい物ができている。

多くの人の手によって変えられていっている。

 
ただひとつ言えることは、それは間違いなく文句を言ってるあなたがやったことじゃない。

 
あなたにとってのリアルじゃない、どこかの誰かが少しずつ、少しずつ変えていっているだけの話。
 

 
南相馬市のボランティアセンター長は数年前にこんなことを言っていた。
 

「一個の小さい石を動かすのも、復興だ。」

 

  
何をしたらいいかわからない。

何ができるかわからない。

それが本音だし、僕自身もそう。
 
 
募金なのか、ボランティアなのか、観光しに行くのか、年に一度思い出すだけなのか、何がいいかはわからない。

 
きっとそれは人による。

金があれば募金したらいいし、時間があればボランティアしたらいい。

 

復興なんてまだ全然してない。

だけど、確実に復興してる。

 
その言葉の意味をわかってくれたらと思います。

 
長々書いちゃったけどこれで終わりますm(_ _)m

 
 
できる人が、できることを・・・。

 
 

 

 
 

 
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