もしも年間500万円タダでもらえたらそれでも働く?後編

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もしも年間500万円タダでもらえたらそれでも働く?前編

※あくまで個人的にいろいろ考えていることを整理するためアウトプットしているものなので、正しいまたは正しくないという前提で見ないことをおすすめします。

お金をもらって働かないは共通のゴール

そもそもなんでこういうことを書いているかというと、次世代についての考察である。

「500万円もらったら働く?」この質問の金額とかには特に意味はない。

お金もらって働かないという状況そのものをどう捉えるかということ。

よくよく考えてみると、誰しもがそこへ向かっている。

年金である。

親世代などはそうだし、いわゆる団塊世代とかベビーブーム世代と言われる人達は今年金をもらって暮らしている人が多い。

それはまさに「お金をもらって働かない」ということではないのだろうか。

“定年退職”というワードがある。

親世代などはそれが当たり前にあるゴールだったと思うし、国も企業も学生も共通の認識として持っていたものだと思う。

その後の”働かなくていい生活”というのは退職金だったり年金だったり貯蓄だったり、そういうところから捻出する。

もしくは子供がどうにかしてくれるなどいろいろと可能性はあるものの、とりあえず働かないという選択を多くの人がする。

働きたくても働けないという場合もある。

なので一概には言えないことだけど。

定年退職というのは若い世代や僕ら世代からするとあんまり意味がわからないものである。

この「意味わからん」という状態と、そのリアリティのなさって一寸先は闇みたいな事と実際はなにか違うのだろうか。

未来を想像することがすごく難しい。

よくレールに乗った生き方とかいう言葉があったりするけど、そのレールがなかったり見えない。

事故る未来しか無いレールだったら乗るか?という話。

先がわかっていれば乗るわけがない。

それさえもわからない世界に今人々は生きているのではないのだろうか。

【終身雇用の崩壊】

こういうことは一昔前から言われ続けているけど、今終身雇用というものを信用している人はいないと思う。

昔に比べて自由な働き方ともとれるし、サバイバルみたいなものだともとれる。

逆にこのサバイバル感は一定以上上の世代には理解されないと思う。

そういう時代ではなかったから、イメージがしずらかったり、なんとかなるでしょ的精神論も出てきやすい。

その世代間ギャップはしかたがないとはいえ、そのギャップにより有耶無耶にされてしまっているところだとは思う。

有権者の絶対的な数が違えば政治などが偏るというのはいい例。

若者が投票にいかないからというより、若者の数が少ないのだからどうにもならない部分は多少なりともあるわけで、それによりレールが見えないのだとしたらそれは一人ひとりの責任ではない。

かといって終身雇用が実現できない企業の責任だとかそういうことではないと思っている。

大企業のみならず、雇用を作っている中小企業の社長も個人事業の経営者もみんな必死だ。

僕自身経営者という立場に立ってみてはじめてわかったこともある。

前回の記事で書いた【生産】というものが難しくなっているということを感じる。

日本は生産性が低い国だと言われるが、上げることがただ単に難しいだけなのかもしれない。

要因はいろいろあるだろうけど、誰か一人が頑張ればどうにかなるとかそんな簡単な話ではなくなっていると思う。

それでも人生は続くし、生きている以上食っていく必要もあるから働く必要もある。

そんな世界でも、多くの人にとっては何かしらのゴールは必要だと思うし、それはやはり【年金】なのだと思う。

道中の経路が不明でも年金暮らしの余生というものがゴールとして見えるのだとしたら「お金をもらって働かない生活」というものはリアルなのではないのだろうか。

今、今日、明日それが手に入るとは到底思えないけど、いつかそういう時が来るというイメージは多くの人が持っていると思う。

なぜかというと、そんなに働けないというのは周りを見ていてもわかる。

体力的に働けないのか、精神的に働きたくないのか。

例えば美容師だったら80歳90歳でも髪を切るのか。

職業は様々だけど「これ以上はどう考えても無理」という年齢は意外と早くやって来るような気がする。

意外と早くというのは長寿化している現代で100歳まで生きるかもしれないという前提のもとだから、65歳で引退しても35年もある。

35年前といえば僕はまだ生まれていない。

恐ろしく長い時間。

余生と言うにはちょっと重すぎると思う。

しかもその年金システムさえも継続できるか謎であるということを考えると、マジで国がお金を配ってくれるようになるか、テクノロジーが進歩して若返る薬でもできるのか、なんかそういうことでも起こらないとそのリアルというのはなかなかに厳しいモノだということは想像できる。

ということは【引退】をいつするのかが重要になってくる。

僕自身が出した答えは【なるはや】だった。

お金をもらって生活することはとりあえず無理

そんなうまい話はやはりない。

国が…というより個人でも企業でも、そんなお金を他人にはいどうぞなんてやる人はまずいない。

だけど遅かれ早かれいつかはそういう生活を送れるようにしないと、一生労働し続けることになる。

現段階で50年後世の中がどうなっているか細かいことはわからないけど、自分が80歳くらいになってめっちゃ働いてるというのは想像しただけで無理。

めっちゃ働いてる割に家もオンボロ、食べ物にも困る、車もないなんてことになったらどうしようかと思う。

子供がいるかいないかわからないけど、子供がいたらなんとかしてくれるとは思いたくない。

そうやってしんどい思いをしている人が世の中にたくさんいるし、でなければ介護殺人など身内で殺し合うなんてことが起こるわけがない。

自宅介護だって、老老介護だって、突き詰めれば資本主義社会のボロが出た部分なのではないかと思うし、国も誰も解決策は結局出せていない。

2021年でそういう状況なのだから数十年後はもっと悪い状況になっているということも考えられる。

だから僕の中では「子供になんとかしてもらう」という選択肢はない。

ただの綺麗事で理想論かもしれないけど子供には子供の人生があると、そういうことは言いたいしそういう事を現実にするためにこの持続可能かつ自己完結するための生き方というものを模索しつつ行動している。

実はこういう思想自体は15歳位の時からあった。

働きたい働きたくないという感情を抜きにして、働けなくなったらどうするかというイメージが常にあった。

親がリストラをされたという体験をしたからだ。

詳しいことは知らないがあまりに理不尽だなということは思った。

経営者になった今、それを決断した経営者や幹部の心苦しさがわかるような気がする。

そうしたくてしたわけではないと思うし、必死になって考えた結果なのだと思う。

子供の時の僕からすればそんなことはわかるわけもなく、いきなりクビを切られた側である親の気持ちもわからない。

これからの世の中そういうことがもっともっと増えていくと思う。

終身雇用云々ではなく、雇用そのものが変わる。

法に守られた労働者としての扱いではなく、生産関係に基づく一個人としての扱いへシフトしていく。

だからクビという概念がより軽くなり、簡単に人を切れるようになってしまう。

「働きたい」

そう思ってもそれが難しくなったときがやってくるかもしれない。

その時を引退と言うのはちょっと違うと思う。

引退はある程度の保証のようなものがあるからできることなのだから、その保証がない限りは働きたくても働きなくなくても”働かなければならない”ということになる。

それがあまりにもシンドイので、精神を病む人もいるだろう。

生きる中でそういう時期って健全でいられないと思うし、常に不安がつきまとうような生き方はなるべくしないほうがいい。

誰もがしたくないと思う。

その不安感とお金がどうしても結びついてしまう。

今の時代が太古の昔のようにみんなで農業やって生きていけたらいいのだけど、何でもかんでも資本主義というルールの中で生きているので、やはりなんだかんだお金は必要ということになる。

多くはいらなくても、最低限は必須だ。

それをみんなわかっているから、お金に悩むし、お金に困るし、働くし。

引退するための保証というのは言い換えればお金である。

毎年500万円勝手に入ってきたら働く働かないの意思は別として、絶対に働かなくてはいけないという状況からは抜けられる。

500万は正直言いすぎだけど、月10万円でも入ってくるオリジナルシステムを【なるはや】で作る事をすべきなのではないかと思う。

昔からこれをセルフベーシックインカムと呼んでいる。

ベーシックインカムとは国が定額給付金のようなものをくれるシステムのことで世界中で議論されているが、僕自身は日本の社会問題の解決にもつながると思うから超肯定派である。

ベーシックインカムについてはおいといて、そういうシステムを作ることを僕自身数年前から取り組んでいて、最近になって結果は出てきたから今はセミリタイアを公言しているが、35歳までには完全引退しようと思っている。

なるはやの理由は【若いから】【体力あるから】【動けるから】である。

セルフベーシックインカム

つまり勝手にお金が入ってくる仕組みさえ作れればよい。

なるべく継続性があるもの、再現性があるもので。

労働ベースで収入をあげようとすると時間がなくなっていくが、システム化すれば自分が働くということをしなくてもいい。

イメージとしては猫の餌を自動でやってくれるマシーンとか、セルフレジとか、ルンバとか、ああいうのもシステムであるのだから人がやらなくて良くなっているがああいうのを作ったほうが良い。

僕の中ではそれを労働ではなく【知的労働】というふうに呼んでいる。

技術を学んでコツコツと猫餌マシーンを作るのではなく、どうしたらそれが動くのか?ということを頭で考え実行する。

これまではそういうことは国も会社も【首脳陣】といわれる人たちがやる仕事だったと思う。

しかし今はアイデアがあれば子供でも収入を自動で作れる時代である。

例えばユーチューブのコンテンツ作成、ライブ配信などはいい例だ。

面白い作品を作ってポストすれば広告収入が入ってくる。

そのツールを使ってシステムを構築してしまえばいい。

それらもテクノロジーが進歩したから実現したことであり、革命ではないだろうか。

僕自身はNFTに目をつけている。

ブロックチェーン技術もまた人類に革命を起こすことだろう。

ブロックチェーンにより様々なものがデータとして成立するようになる。

仮想通貨などはそのいい例であって、ブロックチェーンの活用はとても興味深い。

前回書いた【無】の境地はここにあるのかもしれない。

仮想通貨は実態がない。

ブロックチェーンをつかったNFTアート(デジタルアート)もやはり実態がない。

デジタルアートなのでデータであるが、データ化された靴に何億とか何千万という価値がつく時代になった。

履けないのにも関わらず靴を買うのだ。

信じがたいがそれが現代。

とにかく実態が【有るor在る】ものに価値があった時代からひっくり返ってしまっている。

【無】に価値がある。

だから【無】が必要なのではないか。

これを書こうと思った根底にはこの革命が起こっているということがある。

これまでお金を作るためには労働するしかないと思っていた人々が気がつき始める。

肉体労働以外の選択肢があるということであり、それが時代を作るということ。

知的労働にしろテクノロジーの活用にしろ、今はセルフベーシックインカム的なものを作るハードルというのはめちゃめちゃ低い時代になっているということが言える。

「わからない」と拒否してしまえば、それで終わる。

しかし引退というものをどこかでしなければならないという問題はついてまわる。

国がベーシックインカム制度を始めるのであればいいと思う。

しかしそれそのものは妄想の域を出ない。

持続可能な生き方というのは、見えない未来を見ることだと思う。

レールが見えない、走るべき道が見えない。

それを見ることだと思うし、見るためにどうしたらいいかを考えてトライすることだと思う。

お金があっても働くか?

僕は働く。

働くが、働くということとお金を結びつけて僕は考えていない。

知的労働やテクノロジーの活用でお金を作るべきだと思っているから、労働というものはやらないしやりたくない。

自身やっていた過去はある。

やっている人もいる。

でも今自分の世界観では【脱労働】は大きなテーマだと思っている。

それでは働くとは何か?

これは畑を耕してみることだと思っている。

畑を耕して、種を植えて、野菜をつくる。

当然1円にもならない。

だけどそこには考えて動いて結果を出した”自分”というものが残る。

そのリアルが”経験”として蓄積されて知識となり、やがてなんらかの発想につながるのではないかと信じている。

畑を耕すことなんて1円にもならない。

マジでそう言われたこともある。

1円にもならないからやらないという人にはその先は絶対に到達できない。

「時間がない」

なのであれば、時間を作るべきで、この話の根底部分にたどり着く。

突き詰めると知識があればお金は作れると思う。

知識と時間には因果関係がある。

時間があれば知識が増えるし、知識が増えればお金が増える、お金が増えれば時間が増える、時間とお金が増えればもっと知識が増える。

繰り返していけば、引退ができる。

これまでは肉体的な時間をお金に換金していた世界観で、そのループとは逆転している。

たぶんこれまでも一定数そういう人はいたのだと思う。

仕組みを作ってセルフベーシックインカム化して働かなくなったみたいな人が。

東南アジアあたりでふらついてるわけわからないオッサンなんかは大抵そうで、不動産とかFXとかで成功したオヤジが毎日何もせず300円の宿で50円のビールをチビチビ飲んでいたりする。

そういうオッサンに僕はなりたくはない。

長寿化は不安も多いけど、僕の中では嬉しいのが知識を詰め込む時間が増えたことである。

知識に質量はない。

実態もない。

まさに【無】の世界にあるものである。

知識は世界のどこへでも運ぶことができる。

知識がたくさん付けば、理論上僕は世界のどこでも生きていくことができる。

それはつまり【旅をして生きる】ということになると思っている。

子供の頃体験した親のリストラ、そしてとにかく旅をしたいと思う血。

これが自分のアイデンティティなのかもしれない。

いろいろ考えたりいろいろやってみて失敗も損失もめっちゃやって、めっちゃめっちゃいろいろやって、本当に。

たどり着いたのはシンプルな答えだった。

セルフベーシックインカムも5万でいい。

それで働かなくていい時間が作れれば人生は絶対に変わる。

月5万の収益化はやれば誰でもできる。

働かなくていい時間に、何をするか。

今はそれを会社を通してシェアしていくことを1つの目的にしているけど、きっと多くの人とは関わることができない。

だけど少しずつそういうことを理解し共感し体験する人とは繋がっていければと思う。

人との付き合いを通して様々な経験もできる。

それが生産につながる。

今は時間があるから、いろんなことをして働いている。

特に今はNFTアート、つまりデジタルアートをやろうと思っていろいろと。

わからないことは調べて、学んで、トライして。

なんとかなるのかもしれないし、ならないのかもしれないし。

やるだけやってみようと思う。

めちゃめちゃ長くなったけど書いたら頭の中がスッキリした。

なんとなく。

そして【お金が勝手に入ってきても働くか?】に対しては【それでも働く】これが僕の答えである。

猫にゃん😺

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