【天気がいい、ビールがうまい、それで十分じゃないか】

自由に生きていていいねと言われる。

昔から割とよく言われることではあるが、最近が究極な気もしている。

かつてはとても多くのものを望むように生きていた。

だけどそれは望んでいたわけではなく”そうでなければいけない”と思い込んでいただけだった。

ちゃんと靴下を履こうだとか、きれいなジャケットを着ようだとか、朝は目覚ましをかけようだとか。

そのすべてが決して不必要だったわけではない。

ただ、必要だったかと言われると今は疑問をもってしまう。

なぜならそれらを得るために時間やお金や労力をたくさん使っていたからだ。

【大人として】
【社会人として】
【男として】
【美容師として】

いろんな肩書を着させられ、そのイメージに沿って生きなければ頭のおかしいやつ認定されてしまうことが耐え難かったのだろう。

大人として認められたかった。

社会人として評価されたかった。

今思えばそれはデカ盛りの店に行きインスタ用に写真を撮ってほとんど食べずに残すようなインスタ女子と何ら変わらない、ただの承認欲求の塊でしかなかったのだ。

自分がどうというより、周りからの評価で生きていた。

そのために何でもやったし、何もやらなかった。

着飾るために精一杯努力した、何でもした。

自分自身を出すことを抑え込み、とにかく何もやらなかった。

そしたら2年と持たずに病んでしまった。

根本的にそういったことが間違っているのだと気がついたのが22歳の時だった。

少なくとも僕にはそういう生き方は合わない。

そう思い、旅に出た。

今裸足でサンダルを履き、何の変哲もないTシャツを着、朝起きたときに起きる。

そして暇つぶしに散歩して、休憩がてらビールを飲む。

そんな周りから言わせると自由な生活をしていると、とても望むものが少なくなったのだと気がつく。

両手両肩に抱えているものがほとんどなく、周りにあったはずの常識だとか強迫観念とかが何処か遠くへ行ってしまった。

シンプルにかつての生活と今とどちらがいいかと考えると、今の方がいい。

いつかキューバのおじさんがビーチで僕に教えてくれた。

「晴れてるからいいじゃないか」と。

海に入り、ハバナクラブというラム酒をラッパ飲みしながらそういった。

瓶を僕に差し出し、お前も飲めよという。

日差しが照りつける海の中で、そのラム酒を少し飲んだ。

喉が焼ける感覚と、昼から強烈な酒をラッパ飲みする背徳感がそこにはあった。

美味しいまずいではなく「あ、いいな」と思ったのだ。

別にそれでいいじゃないか。

晴れてる、酒が飲める、話ができる。

僕はお礼にビールを差し出した。

キューバのおじさんがそれを飲み、周りは笑った。

そんな人間らしい瞬間がとても珍しいことのように感じるなんて、僕の感覚がいかれてるんだなと思ったのだ。

そういう時間に自分が立つことが生きているということなのだとしたらもう十分なのかもしれない。

人はどこに立つかによって、自分自身の本心とは全く別の自分として振る舞わなければならない。

逆に言えば立ち位置を考えれば晴れてるだけで満足する生き方もできる。

ただそれを手に入れるのが難しそうだと”思い込んでしまう人”ばかりの世の中になったから、今日も靴下をはくのかもしれないしジャケットを着るのかもしれない。

難しくはないんだよ、とは言いたい。

靴下を脱ぐために必要なことは脱ぐ理由ではなく、脱ぎ捨てる行為だけだ。

ジャケットを脱ぐためにお金がかかるなんてバカバカしい。

世の中では自由を手に入れたっぽい奴が「自由になるためにはこちらの月額2000円のオンラインサロンに加入してください!」だとか「有料メルマガでノウハウ教えます!」とやる自由ビジネスが昔から結構ある。

それこそ靴下を脱ぐために2000円も払うのかと冷静に考えてみるとおかしな事だと気がつくはず。

ノウハウではない、方法ではない。

意志の問題であると僕は思う。

晴れていることを幸せだと思えるのであれば、それは何かを得る幸せなのではなくそこにある幸せを感じるということだ。

物を身に着けてはじめて幸せに目覚めるのは遠回りだということ。

ただその瞬間を素直に受け入れて、自分の体の感覚を信仰すればいい。

目が覚めたときが目が覚めるときなのだから。

毎日は無理でも週に1日でも2日でも「晴れてるなぁ、なんかいいなぁ」と思える日が作ればそれこそが自由な生き方への第一歩なのだと思う。

ビールを買うお金くらいはなんとかしたいものだけども、お母さんの肩を叩いてお小遣いをもらうあれをやればいい。

誰かのためにちょっと何かをして。

そんな簡単なことで世界はまわるし広がっていく。

生きるということはわりとそんなもんなのではないのだろうか。

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