なぜ人は一人で生きていけないのか

旅人の友達が結婚した。

30代にもなると結婚した人もそれなりに増えてくる。

“これからは一人で生きて行かない”という選択と意思表示。

それが結婚というものだと思う。

なぜそれを祝うのか?

この世界、一人で生きていくことは難しいと誰もがわかっているからだ。

そもそも物理的にも精神的にも人と一切接することなく生きるとしたら、山にこもって仙人みたいな生き方をするか誰も来ない無人島で自給自足でもするしかない。

ただ仕事では割り切って人と共に生きるとしても「プライベートは完全に一人で生きるということは可能かもしれない」と一定数思う人がいる。

それ故に人は一人で生きられる的なセリフが出てくるのだと思う。

確かに無理ではないと思う。

ただ、そうすることによって人は余生を時間に支配されるようになり、生というものが極端に短くなっていってしまう。

早い話がさっさとお亡くなりになってしまう。

これまで仕事上も自分の生き方的にも本当に多くの人と出会って生きてきた。

とてもじゃないが僕は一人で生きていけるなんて思ってはいないし、これからも仙人になるつもりはなく誰かに助けてもらい、もしくは助けながら生きていくつもりではある。

ほとんどの人は僕と同じだと思った。

けど中には一人で生きようとする人は少なからずいて、昔はそこに強い信念があるからなのかと思っていた。

実際はそうではなく、ただ生きることが上手くいかないだけなのだと最近気がついた。

最近は世の中なんでもかんでも発達障害だとか鬱だとか言って病気っぽくしたがるし、それを甘えだと言えばモラハラみたいになる空気さえある。

僕は典型的なADHDだし鬱っぽくなったことだってある。

それ故の生きづらさは子供の頃から感じてた。

でもそれに否定的になり、できないことはできないなりに頑張ってみた時期もあった。

今はそんなできない自分を肯定し、できないことは人に頼るとか頼むとかして助けてもらって生きるということを覚えた。

仕事でいえば従業員やビジネスパートナー、プライベートで言えば親や友達や、もしいるとすれば彼女。

誰かに助けてもらうことを前提と思えば、別に生きられなくもない。

むしろADHDの特徴を良いように捉えれば、活かすことだってできる。

突発的で飽きっぽいという特徴は、多くのことに挑戦できるとも言い換えられる。

1つのことにこだわらず、あれもこれも手を出して10回やったら9回失敗するけど1回大当たりするみたいな生き方もそれはそれで良い。

1回も挑戦しなかったり、1.2回やって諦めて何も結果を出さないよりはむしろ良いではないかと肯定できる。

だから僕はいつの間にか美容師をやめてうどん屋さんをやったり唐辛子を売ったりしてるのだと思う。

まわりの助けてくれる人たちも「あいつはダメだな」というよりは「そういうとこすごいね」と言ってくれる、思ってくれる。

僕はそこが大切なことなのではないかと思うのだ。

ダメはダメなのだと思う。

それを理解した上ですごいところを見てくれる。

それは結局僕の言動に左右されているのだ。

「俺なんて…」という卑屈な態度、言動を取り続けて一人で生きていこうとすれば周りは助けてくれなくなる。

助けても助けても、言葉をかけても諭しても聞く耳を持たないのだから何も響かない。

そのうちさじを投げられてしまう。

「ほとんどできないけど”これは”めっちゃ得意だから任せて」

もしもこんな言葉が出てきたら。

その素直さを持ち合わせていれば。

人は助けてくれるようになる。

資本主義の良くないところはなんでもかんでも能力やキャリアではかられるということだ。

仕事上はそういうことも重要だけど、継続するかどうかは能力よりも人間関係に左右される。

仕事を続けること、うまくいかせること、実はそこで重要なのは素直さや真面目さなのだ。

仕事以外ではむしろそれしかない。

結婚相手に技術を求めるか?

友達に学歴を求めるか?

中にはそういう人もいる。

そういう人は資本主義社会での自分と人間としての自分を混同してしまっている人であり、完璧主義者だ。

自分一人で生きていけると思ってて、ただその上で付き合うのであれば”ちゃんとした人でなければ”というようなことを思っている。

プライペートが充実しているというステータスが、その人が思う素晴らしい人と一緒にいれる事実そのものだったり、高級ホテルやレストランに行くことだったりする。

意外と自分一人で生きていくつもりっていう想いは、他力本願だという矛盾には気がついてなかったり、自分自身をちゃんと見ない不誠実さがあるように思う。

完璧な人がこの世にいないのは、周りが完璧ではないからだ。

完璧な人が存在するのであれば、世の中全員が完璧な存在にならなければならない。

つまりそれは全員が量産されたロボットにでもならないと不可能なことなのだから。

完璧主義というイデオロギーと思想は僕はそれそのものが欠陥だと思っている。

その矛盾をはらんで生きるのが人間だ。

さっさとそれを認め、できない自分をさらけ出し、その中でできることを模索する。

ジグソーパズルのピースのように人はデコボコとした生き物で、うまくハマれる人を探せばいい。

なぜなら相手もそれを求めている。

相手にとって足りてないところを補うことができるかもしれない。

それはもはや”ダメ”でさえなくなるのだから。

人はなぜ人を求めるのか?

その答えは【感動】にあると僕は思う。

人は一度経験したことについては感動が薄れてしまう。

なんでもそういうもので、仕事でも遊びでも風景でも物でも。

最初の一回というのは衝撃的なものである。

だからなんでも記憶に強く残る。

ところが慣れてくるといちいち感動はできない。

だから時が早く過ぎてしまうのだ。

世界一周の旅に出た頃、とにかく最初は感動や戸惑いばかりだった。

わからないことだらけ、初めてのことばかりでいちいち心をうごかされた。

美容師をやっていて、毎日があっという間に過ぎていったそんな生活とは対象的でとにかく時間が長く感じた。

しかし段々旅にも慣れてくるとまた毎日がただ過ぎ去っていくような感覚にもなってきた。

それを旅人は「旅に飽きた」とか「疲れた」と言うが、それはつまり感覚的に新しさがなくなったからなのだと思う。

人は一人で生きていけないの本質は結局ここなのではないかと思う。

ある程度いろいろなことを生きてる中で経験して、感動が薄れていった。

大人になってしばらく経つと、だいたいそうなってしまう。

疲れを感じ始めるのは30代くらいだと言うが、それは肉体的にどうというより感動が少なくなったからだと僕は思っている。

しかしもし誰かと旅に出ることになったら。

それはもはや自分が知る旅ではない。

一人でアチコチ旅をするのは作る旅、それとは違い人と旅をするのは共有する旅。

そこには違いがあり感動があり発見がある。

人生の第二章とまで言うと大げさだけど、またいろんな経験をしていくことができる。

だから人は結婚するんじゃないのだろうかと。

それをしなければ人生は時に支配され、ものすごいスピードで終末へと向かう。

実質的なカレンダーによる時間の管理なんて意味があるはずもなく、それこそ感動がない毎日はあっという間に過ぎていきあっという間に死んでしまうのだろう。

またそこに感動をつくるというのは、戸惑いや苦しいことも含まれる。

それをゼロにすることは無理だけど、なるべく減らそうと思ったときに大切なことが人に頼ることや助けてもらうことなのだろう。

助けてと言える素直さ、自分本位ではなく助けようと思える思いやり、頼ってもらえるためには信じてもらうことが必要だし、頼るためには信用がなければ受け入れてもらえない。

日々の言動や生き方。

それが退廃的かどうかではないかと思う。

素直ではない人が=完璧主義者だとは思わないけど、現代で生きづらい人は素直ではない人もしくは完璧主義者だと思う。

その発想や言動の根底に発達障害的なものがあるとしても、結局それがなんなのだと思ったりもする。

甘ったれているということを言いたいのではないが、身長も顔つきもみんな違う。

性別も手足の長さもみんな違う。

ハゲる人はハゲるんだし、生まれも育ちも選べない。

それと同じではないかと。

脳に多少の違いがあったと言って、それが何なのだとは思う。

できることできないことがあるのが当たり前。

無理なものは無理だと思えばそんなに大した問題ではない。

踊れるなら踊ればいいし、計算が早いなら計算すればいい。

歌えるなら歌えばいいし、髪が切れるなら髪を切ればいい。

それでもできないことは頼めばいい。

その結果感動が増えるのだから。

誰かと生きるということはストレスにもなる。

ただそのストレスが自分の不誠実さや不真面目さや素直じゃない部分から来てるのであれば、多少生き方や言動を見直せばそれは楽しいことにきっと変わる。

どうせ生きるならあっという間に過ぎていくよりいちいち泣いたり笑ったりしたいものだ。

そう思っているからまた僕は一人で旅に出るし、誰かと一緒に旅をしたいとも思う。

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