不可抗力的だけど昨年12月から1ヶ月半ほど全く人と会わない時期があった。
それまでの僕はというと来る者拒まず、誰とでも会おうと言われれば会っていた。
特にコロナの前はすごくて毎月200人以上は会っていたし、メッセージもひっきりなしに来るけど全部ちゃんと返事してたなぁと。
最近死にかけたこともありスピリチュアルや見えないものを信じようとしているし、そしてこういったところにもちゃんとそれを普通に書いているのだけど、占いなんかも信じるようになった。
マヤ暦のなんとかという占いをやってもらって、それによると今ちょうど転換のタイミングらしい。
去年の6月(誕生日)から人生のフェーズがかわり、最初の半年(つまり今頃まで)はめっちゃくちゃしんどい時期らしい。
あってるやんけ…
21歳から去年6月までは人生の基盤をかためるため「なんでも承ります」という修行の時期だったらしい。
これから46歳までは自分の内面を磨く時期なのだそう。
このガラッと変わった心境の変化はそういう運命的なものだったのだろうか。
大きく変わったことがいくつもある。
仕事との関わり方もその中の一つだけど、人との関わり方もだいぶ考え方が変わってしまった。
これまでは100人から誘いがあれば100人に会ってたと思う。
その中で次につながる人がいるかどうかわからないにしても、そういう繋がりを作ってそこから仕事に発展していったりしてたのは事実。
旅をすれば人と会ってたし、仕事をすれば人と会ってたし、飲みに行けば人と会ってたし、冗談抜きで【丸一日一人でいた】みたいな日はここ10年くらいマジでない気がする。
誰とも会わず、誰とも話さずなんて日があったとしても10年で数日程度だと思う。
それが生きるという事だと思いこんでいた部分さえある。
ブログやこういうところで書く文章を読んでくれて「会いたいです」と言ってくれてそういうのが嬉しかったのもあるけど、なんだか会わなきゃいけないような気もしていた。
ただ最近はその感覚が真逆になった。
全く人と会いたくないというわけではない。
そういうわけではないけど、必要以上に人と会うのはもうやめようと思ってる。
この修行の時代に人と会いすぎただけのような気もするけど、毎月何百人と会っていると結局一人ひとりがおざなりになる。
こう考えてみてもらうとわかりやすいと思う。
なぜ歳をとると1年が早く感じるのか?
それは時間の感覚が変わることによるもの。
5歳にとって1年とは人生の1/5と大きな割合をしめるが、50歳にとっては1/50とほんの小さなものでしかなくなってしまう。
この感じ方の違いであって、人と会う絶対数が上がれば上がるだけ大切な人でもそうでない人でもその時間の重たさが等しく軽くなってしまう。
それでいいのだろうかという純粋な疑問ゆえ、あまり人に会うのはやめようかと思っているということ。
会うべくして会う人は何をやっててもどこにいても会うと思う。
時間がなくてもお金がなくても関係ないし、結婚してようがなんだろうが関係ない。
友達とかそういう枠を超えて人生のお付き合いをするようになるのだと思う。
久しぶりとかも関係ない。
お互いがお互いのやるべきことがあるのだから、それをリスペクトしあえる関係が理想。
今まで会った人すべてがそういう人ではもちろんなかったけど、遠く離れててもまたいつかあの日の続きを始められるようなそんな大切な人が僕にはもうすでに両手で数え切れないほどいてくれる。
情けない姿もカッコ悪い姿も知っていて、酔って垂れ流してしまった本音を知っていて、それでも「それでいいじゃん」と言ってくれるそんな人たち。
日本中どころか世界中にいてくれる。
旅をした中で得られたもので一番良かったことはSNSでバズったことでも、お客さんがたくさん来てくれたことでも、テレビに出たことでもなくそういう人と出会えたということなのだろうと思う。
またいつか、その一人ひとりとの時間がやってくるはず。
その時に1/100とか1/200とか時間の比重を下げたくない。
その絶対数が5とか10だったらと考えるとそのほうがいいとやっぱり思う。
100人と1時間あって話すのと、10人と10時間
すごすのって全然違うはず。
それを求めてるし、求める自分になってしまったのだろう。
会おうと言われたら審査するとかそういうことではなくて、それはなんというかすごく資本主義的でめんどくさいと感じている。
そうではなく会う人とは会うように出来ていると思うし、タイミングだとかその瞬間の感情だとかそういうものにも左右されると思う。
相手がどうというより自分がどうという部分も大きくて、これはやっぱり恋愛に似ているような気がする。
一方通行でもとりあえず成立するけど結局お互い楽しくはない。
楽しい時間をすごそうと思うのなら双方が楽しい時間をすごしていると思うしかない。
そんなシンプルなことが意外と目に見えないものに分類されてしまうので、人は何歳になってもどうしたらいいかわからなくなったりするのだろう。
そこに物とかお金とかが発生するのが仕事。
わかりやすくして、納得しているだけなのかもしれないし、そういう関係は物やお金でちゃんと切れる。
知ってる友達なら楽しい時間をすごすイメージを持つのってそんなに漠然としたことではないと思うけど、会ったこともない知らない人に対してはとても曖昧なものを求めている瞬間でもあって。
それでも直感でこの人と会ってみたいと思った時はイコールその人は楽しめる人だと思っているわけで、ただ何がそうさせているのかは僕も正直良くわからない。
だからあまり自分から人に会いたいと言うことも思うこともこれまでほとんどなかった。
今は直感で会いたい人がタイに1人だけいるので、いつの日か「お会いしてもらえませんか」と勇気を出してメッセージを送ってみようと思う。
人と会うということでいろんなものが変わっていくのは本当によくわかった。
良くも悪くもであって、結局それが自分を作る。
誰といたから幸せだとか、誰といられなくなったから不幸だとか、自分の幸不幸を他者に委ねるような事ももうしたくはないししないけど、ただ僕を変えてくれるだとか僕に教えてくれるだとかそういう出会いはたくさんしたいと思っている。
自分主体のわがまま野郎っぽいけど、だけどこれは自分の人生だから。
自分がもっと人としてというより自然として成長し、その先で初めて出せる言葉や仕草があるはず。
僕はまだそれがなにかを知らないけど、そうなったときにそれに気づかせてくれた相手だとかそれを教えてくれた相手に恩返しがきっとできるのだろうし、そういう良い循環をつくっていきたいのかもしれない。
そしてそろそろ自分の人生をもっと真剣に生きてみようかと本気で思ってる。
これまでが真剣じゃなかったわけではないけど、自分自身を生きるというより職と肩書をまっとうしようとしただけだった。
そんな僕を「ああ、あいつは美容師もやめて美容室もやめて会社も従業員にまかせて何やってんだカス」とか言わないまでも思う人がいることはよくわかっている。
東京時代に美容室をやめたりオンラインサロンをやめたりしたときも嫌というほどそういう念のようなものをうけとった。
かつて「会いたい」と言ってきてくれたその人達の望む僕でなくなったらもう価値がないと失望され、時にはわざわざ余計なことを言ってくれる人もいた。
そんなことは最初からわかっていたつもりでも僕はモノでも機械でもないのだからちょっと辛いものがあった。
子供の時から今の今まで人との出会いの殆どはお悩み相談だった。
どうしたらいいか、こうしたいけど、こんなことで困ってて。
そういう相談を山ほど受けてきて、答えるようにしてきた。
その中で感情移入してしまったり人の闇を背負ってしまったことさえあった。
散々そういう生き方をしてきて、勉強にもなったけど正直もういい言えるほどやったので、 あまりもう僕がそういう役をやらなくてもいいかと。
純粋にもうそういう生き方をしたいと思わない。
それよりももっと真剣に。
物も持たず、人を大切にし、小さなことで喜べるような時を過ごしたい。
そこに共感してくれる人だけが残ってくれるのだろうし、また新たに出会っていくのだと思う。
最近はとにかく1人でいる時間が増えた。
仕事もせず人とも会わずこんなにゆっくりすごすことなんてなかったから、暇だとかも思ってしまうけど温かいお茶飲んでみたり猫と昼寝してみたりスラムダンク読んでみたりそれなりに楽しい時間を過ごしてる。
ああそうそうそう、これこれこれなんていう感覚が戻ってきている。
一人旅なんてどう暇潰しするかなんて瞬間ばかりだったのを思い出した。
ネットもなくやることもない長距離バスの中、目を閉じていろんなことを考えた。
そんな時間が結構幸せだったように思う。
あと1ヶ月はおもに山梨にいるけど、2月後半になったらすこし日本を旅してそのまま海の向こうへ行こうと思う。
そこからまた新しい人生が始まる。
僕は僕の知らない町で小説を書くことにした。
とても楽しみな未来である。
スラムダンクも今は映画とかも公開され世界的にハンパじゃない作品になっているけど、最初の最初は先生が1人で生み出したものであるはずで。
芸術は何事も最初は小さく、誰も知らないものを作るところから始まる。
価値がなくても自分にとって意味があるものを作れればそれで満足。
それが売れる売れないはまた別の話。
売らなくていいのだから、経営者7年やった僕からするとこんなに気楽なことはない。
書きたいことを書く。
会いたい人に会う。
それだけで満足。