【答えがあるこの世界でわからないことをわからないままにしておく】

ChatGPTやGoogleの翻訳など、今やAIに聞けばいろんなことを教えてくれる時代になった。

人間がある程度の知識を持って生きていたとしても、そのすべてを網羅することは無理だ。

例えば言語。

英語がわかってもベトナム語がわからないということはよくあるわけで、そんなときAIがあればそれは頼るだろう。

今は様々なツールがあり、それを使いこなせれば何かを知った気になってしまう。

ゆえに答えばかりが先にあるこのような世界になってしまった。

僕は知識、知性というものは大切にしていきたいと思って生きてきたが、知るということはいいことばかりではないとも最近は思う。

自分にとって必要な知識、学ぶべきことは本当はそんなに多くなく、そもそも人間は許容範囲というものがある以上本当はそこまで詰め込むことができない。

疲れず無限に考えられるAIだからこそ導き出せる答えであったり、本来知れないことを知ったところで僕はそれは脳内に貯まるカスやゴミのようなものなのになってしまうと思ったりもする。

知らぬが仏という言葉もあるが、人に対しても知らなけらば良かったなんていうことはざらにある。

知らなければ好きでいられたり、知らなければ信じられたのにって。

そういうのも最近の自分の感覚に基づけばの話で、もともと僕は知を追求して生きてきた。

知識は持ち運べるし、お金にも換金できるし、人とも繋がれるし、偉大だと思っていた。

けどベトナム語が話せない僕がベトナム語を読めるようになった時代において、一体知識がどれほど役に立つのだろうと疑問に思うこともある。

おそらく誰もがそう思っているから、ChatGPTにしろ簡単に質問をして答えをまるっきり信じようとしてしまうのだろう。

それが悪いとか良いとか倫理的なものではなく、単にそういう世界になったのだろう。

事実上、人間の脳みそはAIに取って代わられつつある。

そんな中でわからないことをわからないままにしておくのはなにか気持ち悪いかもしれないが、それでも良いのかもしれないと思った。

AIはもっともらしいことは言うし、本質的な気がするが、それらは正論でしかないのだと思う。

正論が正しいのであれば争いは起こらない。

矛盾をはらんで生きているのが人間で、もし人間がその感情を捨てたならば争いは起こらなくなる。

ただそうなるかと言われれば、ならないと思う。

極端なことを言えば、感情があるが感情を殺してAIに準じて生きていくか、感情任せに無駄なことばかりして生きていくか、その2つにわかれるだろう。

後者は矛盾している。

だけど僕は後者でいい。

きっとそのほうが楽しいからだ。

わからないことをわからないままにしておいても、想像くらいはできる。

その想像する、思考するという過程とその時間こそが人間がやるべきことだと思うからだ。

それをすっ飛ばして結果に飛びつくと、人はもう何も信用できなくなると思う。

AIに時間の概念はない。

人間にはある。

大きく決定的な違い、わかりあえない部分はそこである。

僕らはもっと時間を大切にすべきなのだ。

人間にとっては時間が全てだから、時間だけは無駄にしてはいけない。

自らの歴史、人との歴史は大切であり、友達、家族、恋人との歴史は大切にすべきだ。

目先の結果や利益を追い求めるあまり、そのすべてを覆すようなことがあってはいけないと思う。

それをやってしまったらそれはもう人間的ではないし、感情的でもない。

目の前の人よりスマホの画面やアプリ上の文字を優先する。

例えばそのようなものはあまりに無機質である。

多くの人間がお金のため、便利さや楽さや欲望を満たすためにそれをやるようになったら、世界はとてもつまらなくなると思う。

警笛をならしているのではなく、もうそういう世界になりつつある。

せめて僕はその中で何ができるだろう、自分の人生をどうしていきたいだろうか、と考えるようにはしている。

ベトナムに来て、わからないことがたくさんある感覚に久しぶりになれた。

その時間はやはり有意義だと思う。

答えを探せばすぐに見つかる。

でもわからないことをもっと楽しんでみようと、あえてわからないまま小さな冒険をしてみるのだ。

夕暮れ時の川を眺めながらビールを飲んだ。

目の前では帰宅を急ぐベトナム人がぶつからないようにクラクションを鳴らしながらバイクを走らせている。

日本ではお目にかかれないその光景は、まるで映画を見ているようだった。

夜帰宅して、テーブルにビールを起き、映画を流してみる。

そのシチュエーションに合うおつまみがほしい。

目の前には読めない字で書かれたメニュー。

値段だけは把握できた。

魚らしい物を頼んでみた。

650円ほどである。

しばらくすると大皿に巨大な魚のフライと、工事現場に敷いてある鉄板のようなものと、野菜の盛り合わせが来た。

どうもその鉄板のようなものはライスペーパーで、それに野菜を包んで食べろということらしい。

驚くほど巨大な魚をほじくりながらビールを飲む。

自分で作った春巻きかじる。

それらが食べたかったのかというと全くそういうわけではなかったが、想像する時間と想像と違うという結果を楽しむことができた。

それでいいのだ、と思った。

やっぱり知識なんて自分にとって本当に必要なもの以外はいらないのかもしれない。

わからないということを楽しめるくらいの心の余裕と、時間と、気力と、体力、そして一緒にそれを楽しめる人がいたらもうそれでいいのだと思った。

お金も、名誉も、電波も、スマホも、そこには必要がない。

そういったシンプルで無駄が多くて感情的な生き方が、最近はどうもいいような気がしている。

人間が忘れてしまった人間らしさにそって生きてみる。

それはある意味で原始的なのだけど、今の時代でそれをやると一体何が見えてくるのか。

僕はその未知を想像しながら今という時間を楽しんでいるのだろう。

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