【幸せに生きるとは人の幸せを願えることなのかも】

自分の中の哲学を大切にして生きていこうと思って、じゃあその哲学ってなんなんだよと言われて答えられないのも困るので毎日少しずつ考えるようにしている。

今はそれが仕事のようになって、朝起きて寝るまでの間に考えられるときに考えるようにしている。

とくに死生観というのは大きなテーマで、人間にとってのありとあらゆる悩みの究極にあるのがそれなのかもしれないとさえ思う。

なぜ生まれるのか。

なぜ生きるのか。

なぜ死ぬのか。

死とはなにか。

多くの哲学者がいたけどこの分野に関してはあまり掘り下げて考えた人がいないように思う。

「まじでわからん」ということなのかも知れない。

だからとても難しい問題で、きっと誰もが納得する答えなど存在しないのだろう。

ただ自分の中での答えを出していかなければ、生きることそのものがわけわからなくなってしまう。

そういう感覚もこれまで覚えたことがあり、その度に悩んだ。

現代の多くの人がきっと同じように悩んでいて、口では「死にたい」と言ってみるのだけどそれは本当は「生きる意味がわからない」なのだと思う。

例えば死んだらどうなるかは置いといて”生きる”ということにフォーカスして考えてみると、生きてるならば生きているうちに何をしたいのかという漠然とした疑問が出てくる。

これも漠然とした答えだけど幸せになりたいと誰もが願う。

とりあえず雑に生きるということは幸せになりたいということだとする。

「あなたにとって何が幸せですか?」という話にはよくなるけど、僕はあまりそれは意味がないものだと思っている。

猫が好きな僕は猫と寝れれば幸せだけど、エクアドルやギリシャの山奥で野良犬に襲われた経験があるから犬とは触れ合いたくないので幸せを感じられない。

犬と一緒に寝れれば幸せな人は、猫のことが大嫌いかもしれない。

何が幸せかなんて、議論するだけ無駄だと思う。

言い換えればなんでもいい。

それが旅なら旅をすればいい。

家族との時間が幸せな時間ならたくさんすごせばいい。

それらは生きる意味になる。

けど生きる”ために”やらなければならないことによって、その幸せな時間を手にすることが難しくなる。

そういう矛盾の中で生きているから、人は幸せをより望むのだろう。

本当はただ旅に出ればいいだけなのに。

本当はただ仕事を休めばいいだけなのに。

それができたら苦労しないからみんな苦労しているが、できないわけではない。

旅に出ようと思えば出れるし、仕事も休もうと思えば休める。

その余地のようなものがある種の精神的な支えとなって意外と日々のエネルギーになっているのかもしれない。

日々自分の幸せのために生きる。

それを望む。

そんな普通で当たり前のことをやりながら、人は人の幸せを望むということをする。

二通りの人間がこの世にいて、自分の幸せ”だけ”を望む人と、自分の幸せと誰かの幸せを同時に望む人。

誰かとは親なら子かもしれないし、彼氏なら彼女かもしれない。

ただ意外と普通で当たり前に生きてると、人の幸せを望むということは難しいかもしれない。

自分がまず幸せではなく幸せになりたいと思っていて、それが叶わず生きる意味がよくわからなくなっていれば他人を思いやるなんてことができるわけがない。

少し前はそう思っていた。

だから自分がまず幸せになること。

そして誰かを幸せにすること。

そんな手順が大切な気がしていたけど、それがどうも間違っているような気がする。

自分がなんでも主体で考えてしまうと、とにかく自分が1番最初にやらなければならないということになる。

ワガママとか自己中とか僕はそれでいいじゃないかと思っていたけど、それはあくまで自分の世界の中で留められればの話だと思った。

自分の世界には自分しかいない。

僕はそう思っていて、だから自己中心という考えはまずはよくて、その上ですべての物事が自分の物語に登場しているだけであって。

人生というものを物語だとすればその全容を知る人物は自分以外に存在し得ない。

だから自分の世界には自分しかいない。

だけど自分と誰かとの世界が交差するとき。

僕の世界ではあなたは登場人物Aかもしれないけど、そのあなた自身の世界はあなたの世界でしかない。

あなたの物語の中では僕が登場人物Bとしてでたということになるのだろう。

僕が僕の世界をまずは素晴らしくして、僕の世界に出てくるあなたの幸せを余裕があるので願っておきますよというのは確かに自然なことかもしれない。

だけどあなたの世界はあなたのものだ。

幸せになるかどうかは、別の世界にいる僕が幸せかどうかとは全く関係がない。

誰かの幸せを願うのにまず僕が幸せであるべきであるなんて、なぜそんなことを思っていたときがあったんだろうとさえ思う。

無条件に、無秩序に人の幸せは願うことができる。

ただ見たこともない人の事は想像ができないし、会ったことがある程度の人の幸せを願うなんてやっていたらそれこそやりきれない。

そんなに多くは願えないけど、だけど多くを願う。

そんなことが実は幸せということなのではないかと最近思う。

自分が辛いときでも、純粋に幸せになってねと願える人がいる。

なぜ?

その人が僕に優しくしてくれ、僕がその人に優しくできたからだ。

そしてその人も僕の幸せを願ってくれているからだ。

幸せの定義なんて曖昧だし、何が幸せかなんて人それぞれだからこそ「何で満たされるのか」もわからないし「満たす方法」も一概に言えない。

だけどただ一方的に押し付けがましく、ただただ漠然と「あなたには幸せになってほしいんだ」とひたすらに想うこと。

そんな気持ちを持ちながら生きていると、生きることがわけわからなくはならない。

少なからずの意味を見出すことができ、未来がどうかはさておきこれまで生きてきた中でそういう人との関わりが作れたことがとても良かったことのように思える。

思い返しても辛い思い出ばかりの人は、自分が幸せになることだけを考え続けてた人だったとに思う。

その人は僕の幸せより、僕といる自分が幸せであるという感情を優先した。

つまり僕はその人にとっては環境でしかなかった。

真冬の寒い日にストーブやエアコンやこたつがついてれば暖かくて幸せ、それと同じ。

電源が落ちればただの邪魔くさい塊でしかない。

邪魔だと蹴飛ばされれば嫌な思いを当然するし、ストーブからしたらもう勝手に凍えてくれとしか思わないわけで、どうしてそんな人の幸せを願うようになるのだろうかと。

自分の幸せだけしか願えない悲劇の人は一定数いるけど、ずっとそのままならきっと幸せになるのは難しいと思う。

仕事ややらなければならないことに追われ、自分の幸せを掴むことでさえ精一杯な毎日で、それでも人の幸せを願うことをする。

そんなことができる関係性を作ることをする。

実はいちばん生きてて大切なことかもしれない。

そしてそれが願える自分。

その関係性を誰かと作れた自分が今すでにいるならば、褒めたほうがいいと思う。

人間同士、関係性はどうしても時とともに変わってしまう。

いつかもう二度と会わなくなる人もいる。

それでも恩や感謝の気持ちがわき、幸せになって欲しい、元気でいてほしいと心から思えるような関係性を作れた相手とは結局どこかで繋がり続けるのだと思う。

どうせ消しても消せない記憶を残すなら、いいものににしたい。

そのために動くのは相手じゃない。

自分だ。

僕は最近改めて人のありがたさを痛いほど感じた。

友達や、あえて元彼女と言うけどそういう人達がとても暖かいと感じた。

自分が幸せになればそれでいいっていう考え方も間違っていないとは思うけど、なんというかあまりに悲劇的。

自分はかわいそうな人間で、愛される人間だと思って一生懸命なりふり構わず生きている。

そんなことはないのに。

愛さないから愛されない。

願えないから願ってもらえない。

すべては自分からはじめてないから。

そういうことに盲目的になって貧しい生き方をすれば、きっと生きていることはよくわからなくなる。

損得ではなく、お金がどうではなく。

ただただ意味がわからなくなる。

だから何を得ても、何を買っても、誰といても全く満たされないのかもしれない。

幸せを願える人がいることに感謝し、元気でいてねと言ってくれることに感謝し、わりとそのくらいで生きるなんて十分だったりするのかもしれない。

それから少し美味しいものを食べて、温泉にでも入って、友達とお茶して。

たまに思い出の場所へ行ってみたりして。

そう、思い出も変わっていくものだと思う。

昨日はいろいろ思い出のある諏訪へフラッと1人で行ってみた。

今となってはかつて諏訪をおとずれたときの思い出が消し去りたい嫌なものになってしまったけど、好きな街なので上書き保存ということで1人で町を散策して地酒と塩辛を写真に納めた。

地酒と塩辛はただのオッサンでしかないが、やっぱり諏訪は神秘的で寒くていい場所だった。

震えながら車中泊して、いつも一緒に寝ている愛する天然湯たんぽ高菜先生を恋しく思いながら寝た。

そんな時間がかけがえのないものに変わる。

旅の思い出も、人との関係だって全部変わる。

それでも変わらない【願い】を作る。

そんな人生がどうもベストな気がする。

僕には猫の幸せが何かはさっぱりわからないけど、食べるものに困らず寝る場所に困らず彼がゴロゴロ過ごしてくれればそれが一番いい。

本気で猫に対してそんなことを思っている瞬間がまた、結構好きな時間だったりするのだ。

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