グーグルフォトが容量がいっぱいだから課金しろとうるさいポップアップが昨日から出るようになった。
しぶしぶ写真を消そうと見返すと2014年の写真がいくつかあった。
懐かしさよりもようやく今になってその旅の真理がわかったという衝動的な感覚が降ってきた。
ラオスとベトナムの国境で撮った写真がある。
そこには橋がかかっていて、猫がいた。
「ここはどこなのだろう?」
世界地図で見ると国境と呼ばれる線でしかなく、ただ実際にその場所に立ってみるとなんだかみすぼらしい橋がかかっているのだ。
その上を猫が歩いている。
「君はどっちの猫なの?」
人間は国籍を持ちパスポートの力でその橋を越える。
けど猫には関係ない。
そんな世界の空白地点で自撮りをしたときのものだ。
ヨレヨレのTシャツ、伸び切った髪の毛と橋によく似合うみすぼらしい格好で立っている男が写っているのを見るとなんだか微笑ましくも思う。
あの頃の僕は何をしたかったんだろう?
表向きには世界を旅して髪を切るんだと話していたが、まだほとんど誰もその存在には気がついてくれていなかったし自分でも何をやっているのかはよくわかっていなかった。
ただそんな日々を書き留めておこうと、毎日毎日文字を書き続けた。
確かなことは髪を切ってどうなるかというより、毎日必ず文字を書き発信をするぞということだけだった。
今思えば本当は文字を書く旅をしていたのではないかと思う。
自分自身も髪を切って人と出会う旅をしていると思っていた。
ただもしもそれを一言も言葉にせず淡々と繰り返していたら、僕はきっと僕ではなかった。
文字にして文字にし続けて来たからこそ知らない誰かとの出会いが生まれ、巡り巡って猫とも出会って、一緒に寝るのがなんだか当たり前のようになってしまっている。
まるまる9年の月日が経ちようやく気がついた。
あれは髪を切る旅ではなかったんだと。
文字を書く旅だったんだと。
あくまでその物語の題材として世界で1000人の髪を切るんだということがあっただけで、髪を切ることはパスポートにハンコを押してもらい橋を渡る行為と何ら変わりがなかったのだ。
本当の意味での表現は文章というものであって、だから僕はその行く末で美容師を辞めたんだと今納得した。
ハサミを持たなければ生きていてはダメだと思っていた時期もあった。
けど今はハサミを持たずに生きていられる。
美容師は10年でやめたけれど、物書きは9年続いている。
決して一度も嫌だと思ったこともストレスを感じたこともない。
365日ほとんど休みなく毎日毎日繰り返し書くことができている。
最近いろんな辛いことがあって、その反動でいろんなものを捨てた。
削ぎ落とすだけ削ぎ落としてみたら、僕に残ってるのは旅と文字くらいしかなかった。
持たざる者は不幸のように思われる現代で、僕はそれしか持っていないことがとても幸せに思えた。
旅ができる。
文字が書ける。
これで天気が良ければなおよし。
それだけしかと言ってしまうより、それができることを誇れれば人は何にでもなれるしどこでも生きていけるのだろうと思う。
最近あった嫌なことをきっかけにここ2年ほどのことをいろいろと思い返してみた。
あまり思い出せなくて、どこへ行ったとか何を話したとか日々何してたのか正直よくわからない。
自分の発した言葉や感情、思考なんかもまるで無かったことだったかのように消えてしまった。
それは僕が生きていたからではなく、環境に生かされていたからなのだと思う。
家があり、仕事があり、いつも話す人がいて、それが幸せなことだと思っていた。
それを作った自分がなんかすごいような気になっていた。
ただそれは周りにとっての幸せであり、僕にとっての幸せではなかったのかもしれない。
芸術が理解されてはいけないように、僕自身も理解されてはいけないような存在でいいとまた9年越しに思うようになった。
文字は芸術だと思っているし、その中身もまたただの感情であってはいけない。
見る人が見たらみすぼらしい橋でみすぼらしい格好をしている男は、情けなく恥ずかしく関わりたくないような存在に見えるかもしれない。
だけどあの日あの時橋の上で感じたこと、猫に感じたこと、自分が地球上で人間の都合だけで作られた空白の地に立っている幻想感。
あれは何年経っても消えない記憶として残り続けている。
それはその時間そのものが人から理解されない芸術だったからなのか、またはそれを文字にすることで表現をしたからなのか、人の記憶には残らなくても僕の記憶には確かに残っている。
評価されるされない、売れる売れない。
そういう世界で生きているとカッコいいものやオシャレなものや意味があるものに人が集まる。
意味もなく、オシャレでもなく、カッコよくもないものこそAIが作れない”何か”ではないかと思うし、おそらく僕はそういうことしかできないのだと思う。
3月からタイへ行ってそのままどこかを放浪するような気がしている。
ハサミも持たないし、たぶん何も持っていかない。
旅と文字は大きくもないしバッグに入れるものでもないから手ぶらでいい。
ただ僕の旅と文字が同じ重さを持ち、そしてそれらは決して軽いものではいけないと思っている。
またあの旅の続きを。