【辿り着いた場所が行くべき場所。フーテンのJUNになりたいと思った話】

ちゃんと見たことないけど「男はつらいよ」でおなじみのフーテンの寅さんという人がいる。

人情ドラマなのだけど、世の中には寅さんの生き方に憧れる人が多いという。

そうなんだ、と思って少しだけYou Tubeで見てみた。

今で言うところの自由人というやつなのだと思った。

フーテンとはかなり昔からある言葉のようで、漢字では瘋癲と書くらしい。

元々は精神病の人のことを指す言葉で、それが60年代にヒッピー文化を真似てフーテンというカタカナ表記になったという。

その頃新宿東口で仕事もせず、地べたに寝そべり睡眠薬を飲んでラリってみたり奇声を上げたりしてた若者達はフーテン族と呼ばれていた。

今でいうとこのトー横キッズと近いようなものを感じるが、世間一般からはきっと白い目で見られていたのだろう。

東大全共闘など学生運動をしていた時代とも被り、ヒッピーが掲げるカウンターカルチャー、つまり反体制だったり常識を覆すという政治的思想を少なからず持っていたのかもしれないが、マイノリティではあったはずだ。

そこから50年が過ぎ、その人たちはどんなおじいちゃんおばあちゃんになったのだろう。

現代ではフーテンという言葉はまず使うことがない。

しかしどうも最近そのフーテン的生き方が理想的な気がしてきたのだ。

というか、それはずっと前から思っていた。

一度会社名を超超エリート(株)からカウンターカルチャーに変えようかと思ったこともあったが、反社っぽいと言われてやめた。

フーテンが理想だと言ってシンナーを吸いたいとか、睡眠薬をたくさん飲んでラリってしまいたいとか、奇声を上げたいとかそういうのでは全くない。

ただある種の概念というか生き様としてそういう浮世離れした生き方がこれからの時代というか、僕にとってはいいように思えた。

現代でフーテンをイメージするならそれはノマドとニートとホームレスを足して3で割ったようなものだろうと思う。

スマホですべて完結するし、お金が必要なら仕事もできるし、交通機関が発達した現代においては寅さんが日本あちこち旅をして人と出会ってなんてやっていたことの世界版ができると思う。

実はここのところずっと違和感があった。

日本を出国し、ベトナムを経てカンボジアへやってきた。

旅をしているつもりでいたが、旅ではないなという感覚があった。

なんか違う。

今いるカンボジアでも世界遺産を見に行くわけでもなく、ただダラダラ散歩してビール飲んで人と話して考え事してこうして文字を書いているだけ。

旅人とはもっとこうアンテナを張って五感でいろんなものを楽しみ、移動に命をかける。

そのエキサイティングな感覚と虚無とが混同しているという矛盾を抱えた時間が旅というものなのだ。

そこにある種の幻想をいだき、ミッションのように何かを達成することが目的になる。

僕もかつてはそうだった。

体からあふれる熱のようなものがあり、どこまででも行ってみたかった。

しかし今は対象的に静かで冷たい印象を自分の中に感じる。

存在するのかも、掴めるかもわからない何かを求めてさまよい歩くような、そんな感覚。

達成する目標もなければ、行ってみたい国もない。

たどり着く場所が行くべき場所なのだと考える。

毎日なんでもいいし、どこでもいいのだ。

あえて言うなら地元の人が食べるような店で安くて美味しいご飯を見つけたい。

そしてそこに通いたい。

そのくらいの願望しかない。

それでも誰かとは出会うのだろうし、何かは考えるのだろうし、何かは起こるのだろう。

その一瞬を大切にしたいと思うようになった。

24時間のうち大部分を有意義なものにしたいと仕事をしてるときも旅をしてるときも考えていた。

しかし今は一瞬でいいのだ。

そしてその一瞬を取りこぼさないように、予定を全く入れないようにしている。

右に行きたければ右に行く。

左に行きたくなければ右に行く。

誘われて行きたければ行く。

行きたくなければ行かない。

一つ一つの瞬間は、待ってはくれない。

ただそのすべてを掴みたいわけではない。

それは世の中の一定のルールからすでに逸脱していて、多くの人からすると理解不能な感覚なのだと思う。

朝早く起きること、運転し職場へ向かうこと、お昼にご飯を食べること、スーパーで買い物をすること。

行動を時間で管理され、時間がなにかわからないまま生きることが世の中だとしたら、僕はもうすでに世の中を捨ててしまっているのだと思う。

世捨て人、浮世離れ、浪人、いろいろと形容する言葉はあるが、フーテンもまたそのひとつなのではないかと思う。

そして、それでいいのだと日々実感している。

これから先人間はAIをなぞって生きていくようになる。

それは教科書を持ち込んでテストを受けることと同じだ。

いかに教科書通りに答えるか、そういったことが求められる社会で人は学ぶことや努力することにやる気を出すのだろうか。

僕は出さなくなると思う。

そこに仮想の世界がやってきて、みんなゴーグルのようなものをつけて仮想空間で楽しむような非現実的現実がやってくるだけだ。

ライフワークバランスという都合のいい言葉があるが、ライフが仮想空間に移行したとしてもそこへ行く切符は現実でワークをして手に入れることになる。

それがとてもしんどい行為になるのではないかと考えている。

「そんなことまでして?」っていう仕事だってでてくる。

ただ生きることがとてもハードルがあがるだろうし、それでもなお人は生きるということに集中ができないようになると思う。

今僕が何を言ってるかわからなくてもいい、必ずそういう時代が間もなくやってくる。

そんなときに「本気で生きる」とは意外と何もしないということなのではないかと思ったのだ。

というより一生懸命ご飯を食べるとか、一生懸命太陽に当たるとか、現代社会では重視されないような事を一生懸命すべきだという価値観が生まれてくるはず。

多くは持たず、多くは望まず、その日の暮らしに感謝する。

それをフーテンと呼ぶかどうかはさておき、そういった人種がでてくることは間違いないと思っているし、僕がまさにそこにたどり着こうとしているように思う。

たどり着いた場所が行くべき場所。

そう思えば全ては正解である。

生きていることそのものが正解であると思えば、あらゆるものから開放されて人は少し自分にも世界にも優しくなれるような気がする。

その先には何があるかわからないけど、僕はフーテンと名乗るかはわからないがそういった生き方をこれからもしていこうと思う。

それに失望する人もいれば羨む人もいると思う。

ただそれはなんの意味もなく、猫に小判を与えても意味がないのと同じこと。

誰がどうというより、自分がどうかという世界。

これは国でいうところのナショナリズムであってAIや電波がメインのグローバリズムと逆を行く行為だ。

つまり、それぞれの世界がそれぞれの広がり方を見せる時代になる。

それがおもしろいかカオスかは僕には判断ができない。

ただそこへ行ってみるのみ。

15年続けた旅人としての最後の仕事がそれのような気がしている。

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