【We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.】 “私たちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために”

“私たちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために”

最近ベトナムに来て特にすごくそういう風に思うようになった。

夜寝て朝起きるたびに考えが少しずつ変わっていく。

昔は存在するため自分が何者になるかが大事でそれに必死だった。

社会や周りに認められようと美容師やったり旅人やったり社長やったり。

最近はどうすれば毎日ちゃんと生きられるかばかり考えている。

時間がたくさんあると嫌なことも考えるし未来のことも少し考えるが、今どう生きていこうかということばかりをすごく考える。

「生きるとは」

ただ生きるだけって、ご飯を食べて息をして寝て、誰もが当たり前に簡単に意識もせずにしていることのように思う。

しかし資本主義では生きていくために自分が社会にとって何者であるかという主張はしなければいけないし、それがあってお金があって始めて「何も考えない生活」が手に入る。

布団があり、茶碗があり、米があり。

電気があり、車があり、スマホがある。

この社会で存在するということが人生の前提のようになり、そればかり大切にされてしまい、人は生きることそのものの凄さを忘れてしまったのかもしれない。

そうすることが人間として生きるということで、そこに苦労や苦悩がある。

社会の中で人間として生きている割合が100%になると、幸も不幸もすべて人任せになってしまう。

嫌われれば不幸、好かれれば幸せ。

何者かになるということは、必然的にそういう関係性を周りと作っていくことである。

わかりやすい例が上司や顧客との関係。

会社では上司や顧客に評価されなければ昇進は見込めない。

逆にクビにだってなりうる。

ただのサラリーマンか優秀なサラリーマンか、そういう名札をつけるのは自分自身ではないのだ。

人として生きるということは、そういったことを一生懸命やっていくということである。

僕は人生に疲れたと思ったらある程度人間やめればいいじゃないかと思う。

自然として生きるという、つまり「ただ生きる」という割合をいくらか増やしていけば幸や不幸も自然に依存するようになる。

晴れているとか、ご飯が美味しいとか、暖かい日差しの中で昼寝ができたから幸せだとか。

その中で純粋な生というものを楽しめるようになると、ある意味で人は豊かになると考えている。

ただどうやってそこに行き着くかは大問題で、多くの場合「仕事がないと生きていけない」と本気で思っているため自然体の割合というものはごくちっぽけなものにしかならない。

僕は最近自然として生きるという割合が大きく増えた。

公共料金の支払いの紙、お世話になりますという挨拶メールを目にすることがなくなり、俗っぽいことがだいぶ減った。

日に日にただ生きるという時間が増えていっている。

その中で感じることが自然として生きることそのものは意外と辛いし大変だということである。

自分自身の役割を捨て、肩書を捨て、ただ一人の人としてそこに生きるということ。

ただの動物の1として生きるということ。

もっといえば自然の中の1でしかない。

そこに大きな意味はなく、むしろちっぽけな存在として今日1日をどのように生き延びるかそんなことばかりが大切になっている。

やらなきゃいけないことがない人生というのは、究極だと思った。

そのほぼすべての時間を思考に当てることができる。

その中で何に幸せを感じるのか、確かめるように生きているが、考えが及ばないと思考に殺されそうになったりもする。

そうして少しずつ気が付き始めたのが、人間の世界のあらゆるものから離れて1人で自然体に生きる状況になってみると、人を求めるということだった。

誰かと出会いたいという大雑把なものよりも「誰かと生きたい」という考えが大きくなっていく。

例えば何の変哲もない夜景なんかを一緒に見れる人の存在って実は大きいのだと気がつく。

今は自分より誰かなんだなと思った。

不特定多数ではなく、特定の誰か。

もしかしたらある程度の年齢になると結婚したくなることだったり、子供ができることだったり、家庭を築くこと、その代わりに人付き合いが減っていくのってそういうことなのではないかと思った。

それが生物としての自然の形で、第二のステージなのかもしれない。

つまり存在することではなく「生きる」ということなのだろうと。

おそらく、恋と愛の違いがそこにあるのだと思う。

20代の頃の僕はすべてに恋をしていた。

誰かを好きになる、旅を好きになる、世界を知る自分が好きになることが第一で。

それは好奇心から来たものだったのか、ただ愛するということがなんなのかわかっていなかっただけかもしれない。

20代、30代それぞれで旅をしてみてようやく気がついた。

20代の頃はなんでも自分のためで、1人でどこへでも行きたかったし仕事も頑張りたかった。

30代になると旅をするならば誰かを楽しませたいと思うようになった。

子供でも誰でもいいのかもしれないが、その心境の変化は今すごく感じている。

それは愛なのだろうと思う。

恋は自分が主体であるが、愛は対象となる相手が主体だ。

誰かや何かを好きになりたいというよりは「愛されてやってもいいよ」と言ってくれる対象がほしいのだと思う。

無条件に抱きしめても、勝手に愛してもいい存在。

それを実現するために、結局は嫌でもなんでも誰かのために仕事は頑張ろうと思うのだろうし、社会の一員であろうとするのが人間なのだろう。

ただそれでも自然として生きるということは今後もやめたくはないしその割合は大きいものにしておきたい。

社会には不適合かもしれないが、僕はそれでもいい。

自然として生物として、結婚することや過程を築くことを拒否する人が今は増えている。

それは存在のための選択であり、そんな社会が僕はいいとは思わない。

この社会が間違っているとまでは言わないけど、正しくはないとは思う。

そんなことを今しばらく旅をしながら考え事をして、模索していきたいと思う。

ベトナムの中都市カントーは最高だった。

また行く。

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