「”紡ぐ”人生をやめた中で”紡ぐ”言葉」

昨日は世界を旅した美容師と渋谷でお茶し、夜は夜でまた別の元美容師と参鶏湯を食べながら飲んだ。

美容師という職を離れ経営者としてやってきていたけど、やっぱり周りには未だに美容関係のつながりが多い。

昨日「じゅんさんの紡ぐ言葉が好き」だと言ってもらえた。

というかここ毎日会う人会う人みんなそのようなことを言ってくれる。

ありがたいし、嬉しい。

本当にそう思う。

“言葉を紡ぐ”

ふとこの言葉そのものが気になった。

紡ぐとは綿・繭(まゆ)を錘(つむ)にかけて、繊維を引き出し、糸にするということらしい。

言葉を編み込むようなイメージなのだろう。

編集という言葉があるけど、それも編むという字が使われている。

なるほどと改めて思った。

言葉はつなげていく事で意味を変え、力を持つ。

そしてインターネットの力を借りて世界へ飛び立つんだ。

誰かがそのメッセージを受け取り、読んでくれる。

それによりその人の何かが変わるわけではないのだろうけど、ほんの少しだけ僕の世界が進む。

今日のことや昨日の日記とかではなく、その日その時その瞬間のことを思い出して感じていること。

つまり感情を文字にするということを僕はやっている。

9年間もほぼ毎日。

自分の思想や感情は目に見えるものではないけど、文字に起こすことで客観的に自分の想いというものを知ることができるようになる。

これはつまり誰かに当てたメッセージなのではなく、かなり自分本位な自分のための行いでしかない。

この言葉を書くという行為そのものについて、僕は魂の拡張ツールだと表現をしている。

自分自身の思想や感情はつまり魂だと思うからであり、文字は拡声器のようなものでしかない。

ただこの言語がスペイン語や英語だったらきっと書いてない。

日本人として日本のことを大切に思い、アイデンティティと歴史に感謝し、日本語を操ろうとしてみること。

それが僕の中では大切で、僕にピッタリのツールだと思うからここまで書くということを続けられるのだと思う。

日本語は感情だから。

感情で感情を表現する。

そういうことがどうも美しいことのように思えて、僕はただそんな時間が好きなのだと思う。

文字を書き続けて気がつくことは、やはり自分の変化だと思う。

怒っているとき、悲しいとき、ネガティブなときはネガティブな感情をやはり出してしまう。

嬉しいことがあったとき、楽しいと思えたときはポジティブなことを書いてしまう。

僕は言葉を紡ぐという行為の中で考えることをしておらず、この文章もまったく直感で書いているわけなので現時点では何を言ってるか自分でもよくわかっていない。

あとから5回くらい読み返してようやく何が言いたかったのかを理解する。

そういった日々の自分の変化意外に、大きな変化を感じることがある。

最近一切文字が書けなくなって、ビックリするほど書けなくなって、原因も何もわかっていたけどそこから1ヶ月半抜け出すことができなかった。

スピリチュアルなことがわかる人に「魂抜けちゃっててやばいよ。危ない」と言われてそういうことかと思ったけど書くことはできても書く内容がなかったんだ。

魂が。

けどここ数日は毎日また書けるようになって、復活したんだと感じる。

その前と今とで変化はやっぱりしている。

文字を書いてみることでそれに気がついた。

以前の僕は【挑戦・情熱・エキサイティング・アクティブ】なんかこの辺がテーマだったように思う。

けど今は【穏やか・優しい・静か・落ち着く・チル】なんかこの辺がテーマになってきている。

物質中心の世界から見えないものを大切にする精神の世界へこの世は移行していっているけど、おそらく僕もそれにあてられて移行していったのだと思う。

物質や熱量を求めた世界では人生を紡ぐように生きてきたと思う。

いろんなヒト、モノ、コトと自分をくっつけ、編み込み、合体していった。

どんどん大きくなることが成長だったり成功だったり、つまり”成る”ということだった。

そのように思う。

だけどこれからの世界ではきっと逆で、いろんなものを解き、離し、決別することが重要になっていく。

そんな気がしてる。

紡ぐ世界から解く世界へ。

きっとそこへ進んでいくしかもう道がないような気さえしている。

「その中で何とつながるんですか?」

つまりそういったことが大切なことで、それでもなお手放せず紡ぐことをやめないヒト、モノ、コトが車や家や肩書より護るべきものなのだと思う。

そう考えてみると僕には旅と言葉くらいしかないんだよなぁと。

ヒトのことは正直わからん。

愛する彼女が見つかれば大切にするのだろうけど、今のところどこにいるのかわからないし。

親ももちろん大切だけど今はやっぱりモノ優先のちょっと離れた世界にいるとは感じてしまっている。

モノのことはなおさらわからん。

強いて言うなら玄米と炊飯器くらいだろうか。

ただ彼女がほしいという感情、親を大切にしたいという感情、玄米を食べたいという感情は結局のところ”コト”なのであって、きっとそれはヒトやモノだと考えるから納得がいかないのであって、本当に大切にするという意味では概念だけで成立する。

猫もそう。

猫の世界に僕が少し登場しているだけで、猫には猫の世界があるのだし、親も彼女もそれはそう。

だからコトでしか結局繋がらない。

紡ぐとか編むとか本当は必要のないことなのかもしれない。

モノを維持するためにお金をかける。

お金を稼ぐために人生に必要のない時間を過ごす。

人との関係性を保つためにお金をかける。

お金を得るために人と揉める。

そうしてがんじがらめになって、何をしたくて何が目的でどこに進んで何になりたいのかがわからなくなる。

そういう生き方を僕はもうやめたいとずっと思ってたけど、もうやめたよ。

コトで繋がれば、そこで紡ぐとか編むとかそういう行為は必要のないことになるのだし、お金も必要なくなる。

ただ静かに穏やかに。

その時間の中でこそ感じられる何か新しいことがきっとあるはずで、慌ただしく生きる現代社会の人にとっては未知の世界なのだと思う。

僕はそこで感じる感情と魂を文字に起こして自分の世界を進めていきたいと思っている。

そしてそのさらに先にある世界はきっと素晴らしいものなのだと信じて疑わず、それがある意味で僕と世界を繋ぐ絆のようなものなのだと思う。

言葉で世界とつながり、僕自身がそこに存在するという証明になることで僕は生きるということをしているのだと思う。

たぶん。

まだ自分自身よくわからないし、よくわからないながら感情まかせでこういったことを書き出しているけど5分後、1時間後にまた読んでみようと思う。

その時の僕はもう今の僕ではなく、こうして感情を感情で書いたあとの僕は進んでしまった世界に立っている。

そこに立つことに苛立ちや不安はなく、僕にとってそこは穏やかで優しい場所だと思いたい。

だから感謝の念というものをそこに作り出して、それを大切にしたいのだと思う。

そして日々の新しい感情は出会う人によってももたらされる。

「君の言葉が好きだよ」

そう言ってもらえたことが結局僕の世界と人生を進めていくのだ。

その言葉と言葉の循環がとても美しいもののように思う。

ありがとう。

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