12月に文字を書かなかった反動なのか、書きたいことがありすぎる。
昨日のこと、エスカレーターに乗っていたら急にブチッとネックレスが切れた。
一瞬何が起きたかわからなかったけど、すぐに理解した。
このネックレスはネパールで出会った友達が作ったもので、高円寺で美容室をオープンしたあとにプレゼントしてくれたもの。
その日からおよそ5年間1日たりと外したことがない大切な体の一部だった。
タイガーアイという金運アップの石を使ってくれてたのはきっと仕事がうまくいくようにと願ってくれてのことだと思う。
黄色に縁がなくあまり好きな色ではないと思ってる僕が、すごくすんなりとそれを受け入れられたのはその人に対する信頼だったのか、はたまた願掛けのようなものだったのか。
単純にその想いがすごく嬉しかったのをよく覚えてる。
僕はピアスやバングルや指輪といったアクセサリーをいろいろとつけている。
ただそのどれもが”決して外さない”もので、壊れたり失くなったりしない限りは四六時中そのまんま。
腕につけてるバングルは13年つけっぱなし。
親指につけてる指輪は8年つけっぱなし。
それに価値があるとかないとかではなく、アクセサリーそのものがアクセサリーの役割を超えてある種の運命のようなものをもっていると思っている。
計算したわけでもなく、狙ったわけでもなく、本当にある時急に出会う。
その時から当たり前のように身につけるようになり、そしてある時急に失くなってしまう。
人との関係性なんかと近いものさえ感じてしまう。
それがあるとないとでは全く違って、自分自身の人生と体のまさに一部なのだと思う。
今回ブチッと切れたネックレスに限らず、それぞれのアクセサリーには僕が一方的に想いを込めている。
誰かと買ったものだとか、誰かにもらったものだとか、買ったときの自分がどうだったとか。
記憶と感情がそこにあり、ともに歩んだ歴史があり、それを大切にしたくて肌見放さずつけていたのかもしれない。
そういったものとのお別れはちょっと複雑ではあるけどそれはそれで大切なことなのかもしれない。
そう思って、ネックレスは直して使うことをせずこのまま別れることにした。
というよりその友達意外に直せる人はいないし、きっと友達も直してくれないと思う。
役割を終えたんだよってそう言ってくれるような気がして。
それに今このタイミングで切れたことに意味があるような気がして。
いろいろと変えていこうというタイミングだったし、仕事や人生を見つめ直すべき時だからそういう意味なんじゃないかと捉えて。
だけどいろんな思い出を共にした体の一部であることには変わりないので、今まで僕の仕事を見守ってくれてありがとうと供養して土に埋めようと思う。
そんな僕だからアクセサリーを自ら外すということはこれまでしたことがなかったけど、同じタイミングで指輪を1つ外した。
これにはこれで想いがあったけど、もうその想いそのものが重たいというかあまりにも暗いし、もう二度と触れたくないと思ってこれはゴミ箱に捨てた。
強い拒否と否定の気持ちがそこにあって、不思議なくらい禍々しいもののように最後は見えてしまったけど、ゴミ箱にぶん投げた瞬間に少し記憶が飛んだ感覚があった。
決別できてだいぶ気持ちが楽になったとともに、嫌な記憶がたぶん抜けた。
そんなこともあるんだと驚いたけど、もう思い出さないならそれはそれで嬉しいことで。
それぞれのアクセサリーで全く違う意味での別れをしたけど、なんだかこれはとても必要なことだったように思えた。
首と指にはそのうちまた何かが宿るのだろう。
なんでもそうなのだけど、何かがなくなれば必ず新しい何かがやってくる。
だからそれはネガティブなことではなくポジティブなことで、ゴールではなくスタート。
また明日からは違う世界がやってくるのだし、それを選ぶのも作るのも結局自分次第だ。
誰と出会い、誰と再会し、どんなことを考え、どんな行動をして自らの物語をすすめていくのか。
あまりにも不確定な未来だけど、それだけは確かに楽しみなことだと言え、今日を生きる原動力となるのだろう。
5年間も長いこと一緒に居てくれてありがとうございました。
そしてそれだけ丈夫なものを作ってくれた友達にも感謝。
モノにも魂が宿るってホントにあると思う。