『朝が”嫌”って感覚から抜け出すと次の時代が見えてきてもっと生きやすくなると思うよ』

『朝が”嫌”って感覚から抜け出すと次の時代が見えてきてもっと生きやすくなると思うよ』

なんだか最近久々にあった人には「丸くなったね」とよく言われる。

デブになったという意味ではなく人間的に穏やかになったね的な意味で。

むしろ顔小さくなったとか痩せたとかよく言われるようになった。

酒をやめたからかもしれない。

そして「達観しすぎて34歳とは思えない」ともよく言われる。

いろんなことを考えて生きてきたからか、いろんなことを経験してきたからか、とんでもない数の人と会ってきたからか…。

ここ半年ほどはそこらの小学生より暇しててただのガチニートだったが、最近は仕事のアイデアが湧きすぎて新規事業を3つ4つ立ち上げることに決めて急に忙しくなってしまった。
 
その中でやっぱり考え事を良くするようになって、寝ても覚めてもああでもないこうでもないと考え事をしている。

悶々と悩んでいた時期もあったけど、それとはまた違うもの。

なんというかやはり未来を考える時間というものはきらびやかなものだと思う。

世界や他人を変えることなんて無理だけど、今見つめている未来に関しては変えることができる。

モノだったり概念だったり今見えている未来は社長だから持てているビジョンかも知れないし、僕だから見えている光景かもしれないけど、それに手が伸ばせるから変えられると思うのだろう。

少し手を加えると違うものが生まれるだろうと想像ができる瞬間というものは何をしているときよりもワクワクする。

その想像に沿って創造をし、きっとそれを楽しそうに使ってくれるであろう誰かのことを思い描き、うっすら見えているだけの光景に色をつけていく日々。

仕事はお金のためだとか生活のためだとか、嫌でも仕方がないから割り切るものだとかそういう考え方もわかるけど、やはり僕にとっては仕事はものづくりや絵を描くこととなんら変わらないクリエイティブなことなのだと改めて思った。

どうとでも形容してよい粘土の塊が目の前にある時点では、それは自由の塊だ。

伸ばそうがちぎろうが、なんだっていい。

色を塗ろうが混ぜようが。

そうして出来たものにお客様として誰かがお金を払ってくれるように作り込む。

なぜならこの世界は資本主義だからだ。

僕の世界はそうではなくとも、社長としての世界ではそうしてお金を得ることがクリエイターとしての評価につながる。

そして従業員はその僕の思いつきと遊び心から給料をもらい生活をしている。

どうして創造と仕事が結びつくのか?と思うかもしれないが、何かを生み出すクリエイターという生き物はそういうものだ。

基本的には遊んでいるだけ。

だから何かを思いつくと遠足の前の日みたいに寝る前にワクワクしてくるし、寝て起きて朝になって作り始める。

そして作ったものがこの素晴らしくクソみたいな経済優先社会の一部を担うようになる。

そんなことをもうかれこれ9年もやっている。

小6が成人してしまう。

会社をやめて、お給料をもらわずにもうそれだけ長い時を生きていると思うとふと感慨深くなる時もあり、そういうときに年齢や時間の流れを実感したりするのだ。

僕がこれまでに作ってきた事業も1つや2つではなくなった。

ただ平坦な道ではなかったし、苦労のほうが多かった。

才能だとかセンスだとか以前にとにかくがむしゃらに努力するしかなく、そうしてきたことを今は良かったと思える。

そんな経験があるからこそクリエイティブな事ができているし、その精度も近年上がってきた。

今は寝る前に見る夢も、寝ているときに見る夢も、より鮮明になった。

手を伸ばせば何でも作れそうな気さえしてくる。

きっとそんなことはなくてどこかで立ち止まるときがまた来るのだが、そうやって調子に乗っているときに作ったものほど結構うまくいくから不思議だ。

新店舗の壁をペンキで塗ったくり、いろんな色で染まった自分の手を見て、ふとそんなことを思うのだ。

僕はもともと早起きだったけど、スイッチが入ってものづくりモードに入ると考えながら眠りにつくようになるからさらに早起きになる。

最近は朝4時に起きるのが当たり前になってて、起きてからも考え事や調べ物をするのが日課になってきている。

頭はとても疲れるのだが、ランナーズハイのように疲れたときこそふっと変な感じになることがある。

ちょっと前のことだが「朝ってなんで朝なのだろう」とふと思った。

朝とは何か?何なのだろう?

当たり前にやってくる太陽が登る瞬間。

それは1日の始まり。

なぜ、朝は始まりなのだろうか?

誰がそう決めたのだ?

何かを作り生み出すということは【始まりを作る】ということである。

僕はこれまでもこれからも朝を始めていくのだ。

それは誰かにとっての朝でもあり昼でもある。

その前には必ず夜がある。

夜は闇だ。

その中をもがいてもがいて朝が来たときが始まりなのだとしたら、始まりの前の夜とは何なのだろう?

ほとんどの人は夜中まで起きていたとしてもせいぜい1時や2時だ。

3時4時という時間はおそらく1番人間が活動しない時間であり、その朝の前の夜の時間に生きてると実感することは孤独を感じることである。

よく早寝早起きはおじいちゃんっぽいと言うけど、なぜおじいちゃんはそうなるのだろう?

なぜ人は歳を重ねると朝を大切にするようになるのだろう?

よく考えたらをそれは朝ではなく”孤独な朝方”を大切にしていたのではないだろうか。

いろんな疑問が湧いてくる。

生きてるだけでそういう疑問に出会えるのは楽しい。

そしてそれを考えて自分なりに答えを見つけ、その哲学を大切に生きていく。

朝が何かを考えずに生きてきたこれまでの人生は決して無駄だったわけではないが、朝が何かを考えて自分なりの答えが見つかった今とは世界が全く違って見えているから不思議だ。

そこに気がつくとある意味人生は変わってしまうのかもしれない。

そしてその気づきは決して悪い方向に行くものではないはずだ。

少なくとも今の時代は。

朝は眠いもの。

朝は起きたくないもの。

朝は忙しいもの。

急いで支度して家を出ないと学校に遅れる。

会社で怒られる。

それはわずか10歳の子供も同じだし、その子を持つ親もまた同じなのだ。

そして満員電車だろうがなんだろうが、向かうために乗る。

どこへ向かっているのかは実際はわからない。

20代とか30代とか、働き盛りと言われる世代の若者たちや40代の子育てをしている世代などは朝は殺伐としたものだと認識している人も多いように思う。

実際自分も20代の頃は忙しかった。

いや、物心ついたときから忙しかった。

美容師をしていたときなんかは、起きて3分で家を出のが当たり前だった。

朝という時間をいちいち意識することもなく、それ故に夜という時間も意識することがなかった。

1日建物の中で働いて、外に出て気がついたらそこにあるようなものだった。

朝日を見ることなんかなかったし、ただの時間の流れの中で当たり前に朝が来て昼が来て夜が来て夜中が来て朝がきていた。

温度の変化さえわからない。

そこに感情もなにもなかった。

そして僕は1日という時間も把握することができなくなり、それ故に1週間を把握することもできなくなっていた。

1ヶ月も1年も。

「え、もう2023年もほぼ半分終わったの!?」と思った人はもうまったく時間を認識できなくなっていると思う。

8時に目覚ましをかけ、8時30分の中央線に乗り、仕事へ向かう。

気がついたら12時になっているから飯を食い、気がついたら17時になって日が暮れてきて、夜がくる。

金曜日の夜は飲みに行って、土曜日は休んで日曜日は出かける。

サザエさんがやってると思ったらもう朝の満員電車に乗っていて、昼飯を食ってると思ったらクリスマスがやってきて、年を越したとおもったらすぐGWが来て、気がついたら半袖になっていて日焼け止めを念入りに塗っているうちに、葉っぱが赤くなり紅葉が綺麗だなどと思いながら服を見たらいつの間にか厚手のコートを着ているのだ。

僕たちはそうして年齢を重ねていき、要所要所で数字にとらわれ、把握できもしない時間に支配されて、ふとしたときになんだかものすごく老けてしまったような気分になっていく。

いつから人は「朝がきてほしくない」と思って生きるようになってしまったのだろう。

憂鬱な月曜日、戦場のような朝の食卓、ハッピーとは程遠い満員電車。

嫌なものは嫌だ。

しかしなぜそれが【始まりの時】にやってきているのか。

人の幸福度の測り方はよくわからないが、僕はここだと思う。

終わり良ければ全て良しという言葉はたしかにそうだと思うが、始まりも大切だろう。

希望に満ち溢れたスタートと、嫌嫌踏み出すスタートでは下手したら終わりまでその差は埋まらないかもしれない。

というか、終わりってなんだ?っていう。

ゴールも見えてないマラソンをみんなずっと走っているのかもしれない。

社会が何であれ、学歴とかキャリアとか、家族を養うとか、車買いたいとか、社会的責任がとか、会社の期待をとか、いろいろあると思うけどたぶん朝が嫌いだというのはとてもダメなことだと思うようになった。

なぜならそこに感謝がないからだ。

僕は朝というものは【感謝の時間】であると結論づけた。

それなりに理由もある。

僕はずっと日本の歴史と文化を研究してきた。

食、宗教、伝統、お祭り、言葉、あらゆる角度から見てみた。

そして世界へ出たことで比較対象が生まれ、日本の素晴らしいところも良くないところも少なからず見てきたつもりである。

その中で思うのが、日本人は今は”日本人として”生きることができていない。

誰か個人個人のせいではなく、敗戦後のGHQの政策というか、まあ細かい話は長くなるがとにかくいまの教育がよろしくない。

因数分解や中国の漢文は学ばせるくせに「日本とはなにか?」という本質を学ばせない学校が悪いのも、先生達が悪いわけではない。

4時に起きているおじいちゃん達だってそういう教育は受けていないが、おじいちゃん達は親やさらにおじいちゃんから日本のことを学んでいたはずだから今が本当に最後の時だと思う。

何が言いたいかというと、とにかく今日本は「日本とはなにか?」を思い出さなければまずい。

というか、思い出すも何も知らないのだから学ばないといけない。

そういうわけで僕はこれからそういったことを発信していきたいと考えている。

朝は感謝すべきだという理由は、日本の本質をあえてひとつの言葉にするならば【祈り】だからである。

現代で祈る習慣がある人はほとんどいないと思うし、それこそ「なんか怪しい宗教じゃねーの…?」と思うかもしれない。

けど日本では先祖代々祈るということをしてきた。

そしてそれは胡散臭いスピリチュアルでもなんでもなく、実は非常に理にかなった合理的な行為であって、ちょっと極論だけど経済社会をうまく生き抜きたいなら、お金がほしいなら祈れば上手くいく。

お金に困ってる人や人生が豊かではないと感じてる人は例外なく祈るということの本質や日本人のDNAレベルの性質を理解していない。

これは確信に近いものがあって、経営者の友達もたくさんいるけど成功している人はみんなその行為を様々な表現方法であらわしている。

それらを突き詰めると祈るということに通じているなと感じる。

社長とか成功してる経営者って朝早く起きて何かはわからないけど、なにかしているはずだ。

たぶん聞いてみると山登ったりお茶飲んだり本読んだり散歩したりサーフィンしたりしていると思う。

朝を大切にしている人は、うまくいく。

ただ例外もいるとは思うし、朝ではなく夜の時間帯になんかやっている人もいると思う。

端的に言うとそういうことなのだが、経済的豊かさを得ることと祈りの関係性についてはまた今度気が向いたら詳しく書いてみようと思う。

なぜ日本人が祈りを大切にしできたのかというと、それは簡単に言えば自然と共存してきたからだ。

世界の色んな国でも同じように自然と共に生きてきた人と、それにより作られてきた文化があるけど日本はだいぶ特殊だとは思う。

その理由は天皇という、いうなれば1つの王家がありその人達が代々切れることなく【祈り続けてきた】という国だからだ。

他国のように単一の神がいてその人に対し祈ってきたわけではない。

米だとか田んぼだとか自然に対して祈りを捧げてきた。

そして人々も有名な戦国武将さえそれを真似て同じことをしてきたのだ。

源義経が船をジャンプしながら平家をぶった斬りまくった時代にしても、織田信長が本能寺で燃え尽きた時代にしても、坂本龍馬が日本を洗濯するとか言っていた時代にしても、大学生が東大にこもって火炎瓶を投げていた時代にしても、パパにポルシェもらった♡とか言ってる現代でも、である。

そんな国は世界のどこにもない。

だから日本はすごいのだ。

ただそれが今の時代ではだいぶ薄くなってしまったということ。

世界共通で祈りという行為はあるものの、日本の場合なぜ祈るかというとだいたい2つの理由がある。

1つが感謝であり、もう1つが恐れである。

自然というものを見てみると、多くの場合は人にとって恩恵があるものが多い。

海があれば魚が取れるし、山があれば水が湧くし。

動物を食べ、草で薬を作り、木で家も作る。

その反面すべてのものが脅威になり得る。

海があれば津波が起こり、山があれば地震や雨で崩れる。

津波や地震や土砂災害も現代のテクノロジーで予想はできるようになったものの、それでも死者がでるということは基本的に人間があがなえるようにはできていないということだ。

昔ならなおさらそうであったはずで、いつ何時死ぬかもわからないという死との距離感は現代よりも近かったはずだし、それ故に日々感謝することができたし、純粋に恐れることができたのだと思う。

神社のお祭りというものは現代ではイベントごとのようになっているが、ああいったものもだいたい2つにわけることができる。

神に感謝する祭りと神を恐れて崇めるお祭りだ。

収穫祭なんかは前者であり、鎮火祭などは後者である。

感謝と恐れはコインの裏表と同じであり、同一の自然という概念であるとさえ言える。

そして人間も自然と共存するというより、そもそも一部なのだと気がつく。

ただ人間は言葉を持つからこそ、その感謝や恐れをなんらかの形にするようになり、それが文化のルーツでありアイデンティティなのだ。

現在ある文化も生活もあらゆるものが自然につながる。

水も海も山も川も魚も肉も野菜も。

やはり人は生きている以上、すべてに対して感謝しつつ同時に恐れるべきだと思う。

ところが実はこの世にある自然のなかで唯一【恐れ】が存在しない感謝のみの概念がある。

それが太陽。

天照大御神という神様は日本の皇室の祖先だとされ神様界のボスということになっている。

なぜだろうと昔から思っていたのだが、そういうことなのかとわりと最近気がついた。

太陽は恩恵しかない。

紫外線を浴びてシミやシワができると思うと嫌だと思うところも正直あるが、命まで取られることはない。

その太陽と最初に出会う瞬間が朝なのだ。

そしてその瞬間に立ち会うためには朝より前の時間、つまり少なからず夜を過ごさなければならない。

長い長い夜である。

暗い夜とは対象的に怖さしかない。

だから日の出前の4時とか5時は夜が明ける寸前だからゴールが見えてるマラソンというか、気持ち的に楽なのだろう。

月読尊という夜の神様はあまりストーリーもなければ大切にされていないのだが、それも夜は感謝の対象ではないからなのだろうか。

そう考えると昼と夜はやはり表裏一体の存在なのだとわかる。

それを認識せず生きるということがすべての諸悪の根源なのではないかとさえ最近は思う。

不幸だとかそういうのもそこに行き着くのではないかと。

朝が忙しい、朝が嫌い、朝が来てほしくない。

こういう感情は人としては大きく間違っていると思う。

そうさせているのはこの経済主体の社会である。

悲しいことにこの世界で朝日をみて感謝してゆっくり過ごそうと思うと経済的か時間的に拘束されない生き方をするしかない。

それこそ仕事でうまくいくかニートくらいしかない。

僕はどちらでもいいと思う。

ニートでも卑屈でなく明るく周りに感謝し、他者を幸せにするようなニートはちゃんと生きていけると思う。

社長だからってマネーゲームにのめり込みお金を追い求めて人間の本質を忘れてしまえば資産を築いたとしてもいつかは自然にやられちゃうと思う。

それを言語化し、教えとして形にしたのが日本語も含む日本のあらゆる伝統文化である。

例えばありがとうという言葉。

なぜ感謝の言葉に【難】という字が使われているのか。

感謝を難が有ると表現するのは「日々が当たり前ではない」という戒めから来ている。

日々が当たり前だと思ったら人はもう人というよりお金の奴隷だ。

それで良くないから、現代はどこかいびつだし歪んでいると感じるのだと思う。

この違和感はDNAに刻まれた日本人として受け継がれてきた何かが警告を出していると僕は思っている。

だからといってどうすることもできないのだが、自分や手が届く範囲ではやれることをやってみたい。

ないものを作る。

クリエイティブというのは文化のルーツになる。

その朝日が1つでも2つでも登ったとき、これまでにない世界と時間がスタートする。

その中で生きていく人は日が昇り暖かいことに感謝の気持ちを持つかもしれない。

1つか2つの感謝がこの世界に増えるとしたらそれこそ僕が生きることも、アイデアが湧く脳みそがついてることも、起業することにも意味があるのではないだろうか。

資本主義社会と日本人として失ってはいけないアイデンティティや文化を調和させようと思うとどちらも理解したアイデアマンが必要だと思うし、それに僕はなりたい。

そしてそれを実行に移す仲間や社員が必要である。

僕はもうあらゆる物を捨ててだいぶ原始的になってきていて、もうほとんど米と味噌と漬物と豆と卵とかしか家では食べなくなった。

外食すれば焼肉食べ放題とか行きまくっているが、それもいずれなくなっていくだろう。 

服も毎日同じものを着回し、財布もバックも持ってない。

電化製品も冷蔵庫とレンジとスマホしかない。

お金がかからずとても質素だが本質的な生活をしていく中で、歴史や文化を学び続けることと起業だけは続けたいと思う。

有り余る想像力とアイデアをどんどん形にしていきたい。

35歳になったら10年で100個起業するくらいはチャレンジしてみたい。

今でさえ掃いて捨てるほどアイデアがあるからやってくれる人とさえ出会えれば簡単なことだと思っている。

質素な生き方をしていればお金に困るとかはないし元々なくてもいいタイプだし、起業してお金をたくさん得たとしても僕はいい車も時計も必要ないから買わない。

生きる上で最低限必要なお金以外は日本の伝統文化や自然のために使っていきたいと考えている。

まずは猫たん。

空き家を買って猫が自由に暮らせる猫用の家とか作りたい。

あとは日本の歴史を守り伝える人や神社などの施設に使いたい。

なんとなくそれがこれから先僕のやるべきことなのだろうと思っている。

仕事で成功するとかお金を作ることはロジックだから正直誰でもできるし、使えるノウハウなんかもあるとしたらもうタダであげていいやくらい思っているから、猫と朝に感謝し、毎日幸せに生きようと思える人がいたらそれこそ会って協力したいししてもらいたいくらいは思う。

僕は好きなように生きるが、今日も一日感謝はする。

その心だけは忘れてはいけないなと。

なんというか、いろんなものを捨てたらシンプルになって人生は楽しくなって来たと感じる。

人はそもそもそんなに多くのものを持てないのだろうし、これでいいのだ。

なんか心はジジイみたいだけど見た目は若返ってきてるらしいから質素なイケイケ目指します。

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