モチベーションとかやる気とかで動く人はなぜ仕事で成功することがないのか

2020.5.8のFACEBOOKでの投稿より。
「バイク買うか!」となって3日。
ついに決めちゃいました。
写真に写っている金髪ヤローは僕なのですが、バイクは”似たやつ”で買うやつではありません。
デカさとか同じだからまたがってみた的なアレです。3枚目のを買います。
ここ数日の情報収集量はそれはもうとんでもないもので、寝る間も惜しんでバイク情報をかき集めて知識を叩き込みまくっています。
3日前「あれバイク旅したい」という突如沸き起こった衝動からはや100時間ほど経ちますが、その”当時”とは比べ物にならないほどにはバイクが何かということはわかったと思います。
将棋もスパイス料理もそうなんですが一度「コレだ!」と思ったら毎日トライ、毎日エラー、毎日勉強。
将棋なんか特に負けると悔しくてスマホぶっ壊したくなるレベルなのですが、それでも負けを分析。
勉強勉強勉強。
最近はそういう感じで完全に「我が道を行く」的な事ばっかりしていますが、非常にいい感じです。
本気で生きてる感じがする。
会社を始めて3年半、山梨でお店を始めて3年経ちますが、あの当時もそんな感じだったなぁとふと思い出しました。
仕事なんか1つもない状況から作るという事の大変さは本当にいい経験になりました。
高円寺で美容室を始めたときも大変だったけど、会社として組織的にやるということは本当にもう大変で大変で。
その中でずっとついて来てくれているスタッフと先日ご飯を食べに行き「そろそろ旅に出よう」「もう独立してもいいんじゃない」なんて話をしました。
3年間コツコツとやってきたその過程と結果は大きな経験としてすでにあると思うし、その経験が1つの基準となっているから、何をやっても同じようにすればうまくいくのだと思います。
あの無意味だと思えるほどに失敗ばかりだった時間、試行錯誤の日々。
その無駄の積み重ねで起こった出来事、結果。
無駄だと思えるほど小さなことでも、それは確実に経験値として増えていくものです。
大人になってからそういう経験ってなかなか出来ないし、それは歳をとればとるほど自らやらない限りは難しくなっていくものです。
無意味なことやつまらないことにどれだけ打ち込めるか。
何者かになるということはそういう事だし、僕の中ではそれは「死ぬまでやめてはいけないこと」だと思っています。
自分で自分を作り続けない限り、誰かに自分の役割を与え続けてもらうしかないからです。
与え続けてもらえなくなったその時、存在意義というものがわからなくなってしまう。
自分の存在意義は作るもの。
そう思っているからです。
それが仕事であれ、趣味であれ、生活であれ、何でもよくて、何に重点を置こうともそれらすべては【イコール人生】であるから、重きを置けるところに存在意義を作れば良い。
存在意義とは?
人との関係性、ポジション、信頼、クオリティ、おもしろさ、狂気、いろんな要素があると思います。
とにかくなんのジャンルであろうと要素であろうと特出した結果を出すこと。
それが重要だと思います。
結果を出すということは実はシンプルで、実はやろうと思えば誰もが出来ること。
モチベーションで仕事する的な人いますがあれは全く結果が出ません。
いちいちやる気とか気分に左右されていたらとてつもない時間がかかるし、そのうち嫌になって結果が出る前にやめてしまうからです。
逆説的ですが結果を出す人はモチベーションややる気が原動力になっていないということ。
結果を出すためには無意味なこともつまらないことも嫌なこともコツコツとやるしかなく、つまり本気になるということ。
会社の代表とかやっているといろんな人と仕事上の付き合いがあったりしますが、やはり結果を出している人は愚直さがハンパじゃない。
これは仕事に限らず、生きている上で起こるありとあらゆる出来事に通ずることだと思っています。
“何をするかは重要じゃない”
よくスタッフとかにそう言ったりすることがありますが、大抵は「は?」って感じであまり伝わりません。
何かのプロフェッショナルになろうと思ったとき、その方法など多種多様であるし、そもそも専門分野も無限にあります。
さらにオリジナルとか個性をそこに取り入れた瞬間に、誰も見たことがない、前例が一切ない【冒険】が始まるのです。
誰も答えを知らない、誰もやったことがない世界。
そこに面白いもつまらないもなくて、動機や理由なんてものは”だいたいあとから見つかる”というもの。
というより、あとから自分で「結果○○だったからやってよかった。そのためにこれを始めたんだ。」と勝手に都合よく解釈するのだと思います。
そこまで到達するための絶対的なルールは”量”です。
質より量。
下手でも怒られても周りから白い目で見られても。
お金がどれだけかかろうと、体がつかれようと、時間がかかろうと。
打ち込んだ量というものがすべてであるという真理は、いかなる事をしようとも絶対的なゆるがないルールです。
例えば1つのカップラーメンを食べても残った器はゴミです。
しかしそれが50個になったら見た人が写真を撮るだろうし、500個になったらSNSで人気になるだろうし、1000個になったらテレビに出れるかもしれません。
それがどんな事でも、どれだけ本気でやるか。
モチベーションとかやる気とかそういう言葉が出てきてしまう時点でまったく本気ではないわけです。
その場合、強制的にやらざるを得ない環境でもない限り結果はまず出ないでしょう。
そしてそういった強制的な環境は大人になればなるほど無くなっていくものです。
どれだけ中途半端でも、どれだけ好き勝手やってても誰も何も言いません。
何も言ってくれません。
それが結構残酷な事実だなと僕は思ったりします。
「存在意義」というのはこれから大きなテーマになっていくことでしょう。
AIに仕事を奪われようと、コロナだろうと、それでも人は存在しているし、存在している以上意義が必要です。
誰かが自分の人生を与えてくれるなんて、本当はちょっとおかしいことです。
自分が何者か?なんて、自分自身で決めるべきことだと思います。
何をするかは重要じゃない。
裏を返せば自分の人生何をしても良いということ。
同じように、どこへ行こうが、誰と過ごそうが、そんなことはあまり大きな問題ではない。
選択肢は無限大。

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