昔ブログに「自分探しの旅とかないやろwwアホちゃうww」とか書いたことがある。
正直なことを言うと、どちらかというと自分探しの旅という表現は今の心境にはあっているような気がしているから不思議だ。
ただ自分探しの旅なんてわかりやすい言葉だなと思うだけで、本当は自分なんてあってないようなものであり、人は自分なんてものをわかっているようでわかっていなかったりすると思っている。
そもそも自分とは何なのか。
大体の場合それを決めるのは自身ではなく周りだ。
つまり周りとの関係性が自分を作るのである。
アラブに生まれれば僕は酒も飲まない豚も食べないイスラム教徒だったかもしれないのに、日本に生まれたばかりに日本酒飲んで酔っぱらって深夜に二郎系ラーメン麺少なめチャーシュー増しをキメてしまったりする。
タトゥーやピアスに批判的な人はたいてい「親からもらった体に…」なんてことを言うが、仮にそうだとしてではそれは自分の体ではないとわざわざ言っているのだろうか。
そう聞くと自分の体は自分の体だという。
もしも体が自分のものなのであれば、自由に変更すればいい。
しかし実際は仮想空間で作るアバターのように自由に身長や顔を決められるわけでもない。
ハゲるかどうか、鼻がぺちゃんこかどうか、二重かどうかなど自分で選べることではないのだ。
性別もそう。
病もそう。
不治の病になりたくてなる人はいない。
自分でコントロールができない自分の体は、はたして自分のものと言えるのか。
そうやって自分でコントロールできない内と外によって形容されるものが”自分”である以上、自分なんてものは実はすごく曖昧なのだ。
アラブの国へ行けば酔ってラーメンは食えないのだし、平均身長が低いボリビアやフィリピンなどの国へ行けば日本人だって高身長ってことになりモテるかもしれない。
自分探しの旅は、自分を探すのではなく自分の居場所を探す旅なのだろうと思う。
自分自身を世界がどう形容してくれるか。
つまり、そういうことが大切なのだ。
逆を言えば自分以外の人間に対しては形容する立場にあるということだ。
しかしアラブの国に立ったときどういった感情を人々に対して自分が抱くのかは、今この瞬間に立ってみないことにはわからないのである。
正直、世界を旅していた8.9年前と今ではだいぶ感覚が変わったと思っている。
明日のベトナムの宿をまだ決めてもいないし、最悪行けばなんとでもなるかなどと思いつつも調べてみた。
最安で700円ほどでベッドに横たわるだけの権利は買えるようで、昔とあまり変わりがなかった。
二段ベッドがいくつか詰め込まれたドミトリーと呼ばれるその安宿に泊まりたくはないと正直思ってしまった。
1200円払えばシャワー付き個室に泊まることができる。
その500円を惜しまない姿勢、お金を切り詰めて旅を1日でも長く続けようという意気込みがもうないのだということに飛行機に乗るより前に気がついてしまった。
ベトナムのホーチミンにある博物館や教会を巡ってみようとか、ホイアンの世界遺産を見てこようとか、ハノイのハロン湾へ行ってみようとか、山奥のサパに行ってみようとか、どれもこれも魅力を感じなくなってしまった。
ウキウキ知らない国を旅をするということはもう20代でやり尽くしてしまったような気がしている。
では世界に僕は今何をもとめているのだろうか。
それが全くわからないのである。
世界一周をした人間、スリートパフォーマンスで食いつないで旅をした人間、野宿してまで旅した人間、ヒッチハイクしてまで旅した人間は、次に何をすべきなのだろう。
そんなことを考えていると、実際は旅がしたいわけではないような気さえしてくるのだ。
サッカー選手が35歳くらいで引退するのと同じように、今僕は旅人を引退しようと思っているのかもしれない。
自分のアイデンティティだと思っていたものを次々と捨て、最終的に旅と文字くらいしか残ってないとついこの前までは思っていた。
そこから旅までもが抜け落ちてしまったら、僕は一体なんなのだ。
おそらく今僕は世界のどこかにいる誰かに自分を形容してもらいたいのかもしれない。
桑原淳なのかjun kuwabaraなのか、そういった一人の人間に対して豚を食えとか食うなとかそういった決定をしてもらいたいのかもしれない。
その上で「あなたはこうでしょ」という決めつけがほしい。
たぶん。
僕は文字を書くことしかできないから、それを見守ってくれることだけは望むけど、他はああしろこうしろと言われても構わないような気がする。
ついでに働きたくはないから、働いてほしい。
それはなんだ?と考えてみたときに、親だな と思ってしまった。
“初心に戻る”とか”原点回帰”とか言うととてもカッコいい気がするが、つまりベイビーになりたい。
「なんだそれは?」「バカなの?」
そんな感覚はとても正しいと思う。
普通は親になるような歳である男が一体何を言っているのかと、そう思うほうが正しい。
おそらく僕はビジネスにしろ、旅にしろ、エンタメにしろ、スポーツにしろある程度やろうと思ったことはできるような人生を歩んでこれた。
それもやはり自分探しをしてるようで、そうではなかった。
自分で決めたことをやることなんて、実は1番簡単なことなのだと知った。
自分が望んだ夢さえ叶えられなければ、何ならできるというのだ。
あまりに壮大すぎる夢をみる人は想像力が欠如しているということなのだと思うし、そういう意味では僕はすごく現実的に生きてきただけなのだと思う。
できることをできると言って生きてきただけ。
その果に行き着いた夢は【何もしない生活】だった。
働きすぎて脳がおかしくなったのかもしれないが、何もしないということが宝物のよう思えたのだ。
実際仕事もせずゴロゴロしててもお金だけは入ってくるような生活をし始めて、とても楽ではあるが世界が狭く感じた。
なぜ猫が自由に旅をしないかがよくわかった。
する必要がないからだ。
自由がゆえに、どこへも行く必要がないのである。
“何もしない”の次にはどんな世界があるのだろう。
そういう疑問が生まれてきた。
赤ちゃんがそれを考えるのは何歳のときなのだろう。
最古の記憶は2歳の時だが、そのときにはもう何かを考えていたのだろうか。
おそらく僕は今人生のステージ2が始まっているのだと思う。
これまでのすべてを否定するでもなく、ただなぞるでもない。
行き先はわからないが、さまよいたいわけではない。
子供が自分の未来を決めるまで、一人で生きて旅はしないのと同じで。
ある程度の保証された居場所のなかで、見守られながら、教えられながら、それぞれの未来を模索するのだ。
その時に豚を食うなと言われれば豚は食わない大人になるのだし、この神を信じなさいと言われれば信じるのだ。
それが”自分”になり、その自分ありきで今後生きてく中で何をするのかを考えるのだと思う。
僕はつまり自分探しではなく、自分の世界探しの旅をしたいのだと思う。
そしてその先にはこれまでとは全く違う想像もつかないような世界があるはずだ。
僕はそこへ行き着くための片道切符として文字を持ち合わせたのだと思うし、才能と呼べるものをいくつか人は持ち合わせて生まれるのだろうが、僕にはおそらくそれだけなのだ。
いつか文字で世界をつくりたい。
途方もない夢ではなく、現実的にできることやれることがたぶんそれしかない。
何もしないの先には生まれ変わるということがあるのかもしれないと思いながら、ただ文字を書きたい。
そしてその先には一体何があるのだろう。
そんな途方もない行く宛もない旅を見守ってくれる世界は、世界のどこにあるのだろうか。