【人間にとって必要なものがもうすぐ変わる】シンギュラリティの話

シンギュラリティといって技術的特異点と言うんですが、AIの知能が2045年に人間の限界を超えると言われていましたが、どうやらもうまもなくその時を迎えるようです。

2022年はかなり顕著な出来事があって、AIが10秒で絵を描くようになってしまいました。

【Cat, Sleep, Bed room, 】とか打ち込むとその絵ができてしまいます。

まだ作った絵っぽい感じがしますが、AIがそのどんどん精度をあげているので、存在しないはずのその絵と現実の区別がつかなくなるときが間もなくやってきます。

明日にはアップデートされ、明後日にはまたアップデートされ、それがオープンソースで無料で使えるからすごいですよね。

人間が学ぶスピードを遥かに凌駕しているだけでなく、AIは疲れを知らないので人間が追いつくことはありえなくなる。

AIに人間が学ぶような世界になったときに、AIが教えてくれないことは人間にとっては【謎】ということになります。

将棋の世界では1億手先に勝ち目があれば理論上は勝率100%ということになるわけで、いかにミスなくAIのように指せるかが重要になっています。

けど現実的な話なのかというと流石にそれは無理だろうということになるけど、現実としてありえてしまう。

その世界にまで行ってしまえば人間にとっていろんなことが「よくわからない」ということになります。

知的労働やアートはAIと人の区別がつかなくなり、むしろ制作のスピードを考えると人間が勝てるわけがないという話になります。

10秒で絵は描けないから。

作曲や小説もそうでしょう。

そうなったときに仕事として残るものは体を動かすようなことや接客だったりします。

美容師は手を動かして接客を行う仕事ですが、じゃあ安泰かというとそんなことはないと考えています。

一定数は残るにしても美容室に行く人がまず減っていきますから、それを見越してマーケティングやブランディングを行うことも大切です。

けど本質的な変化を見抜けなければ個人レベルではそこまで長く続けられる仕事ではないとも思っていて、というより適応できない人がものすごく多い印象です。

組織としてもブランディングやマーケティングは今変えていかなければならない時にさしかかっていると思います。

それでも当面の秩序を保つため以上のものは求められないように思います。

美容師だけが特別どうとは思わないけど、きっと今から数年間の過ごし方がその先を決めてしまいます。

技術を90%から95%へアップデートしていくことよりも、もっと広い目線で違う技術を取り入れることや世界に適応していくことのほうが大切で、がんばる場所を間違えると大変なことになるとも思っています。

想像力の問題というより、事実ベースでいろいろと考えられることなので、僕は正しく危機感を感じていますがすでに何もわからないという人もいますね。

人間に勉強が必要なくなるとは思ってないけど、何を学ぶかは重要な選択だと思います。

人の行動に制限かけるような教育って今の日本では当たり前にあるわけで、あれは近代国家を作るためだけの教育であって、今後のことを考えると本当に良くないと思っています。

子どもたちの選択を狭めるような世の中であれば未来はないのにそこはあまりツッコまれない。

道徳だとか倫理観からしてシンギュラリティを迎えればズレてきます。

そうなった場合、人間がある一定以前の世界観へ立ち戻ることで人間らしさを保つようになるんじゃないでしょうか。

日本古来の考え方とかそういうものが大切になると思っていて、それがアニミズムとかシャーマニズムとかいわゆる宗教の本源的な部分でしょう。

なので僕は日本には神話が大切だと思っていまして、これから発信していこうと考えてます。

ただアニミズムってあらゆる自然や物に霊的なものが宿る的な自然崇拝の考え方ですが、神道の根源はそこにあります。

それに仏教とか儒教とか西洋哲学なんかがくわわって柔軟に変化してきたものが日本思想というものですが、自然とともに生きろ的なことを言いたいわけではありません。

というかもののけ姫みたいにジャングルの中で生きるとか無理ゲーなので、そういうことではない。

あれは原始人にしかできません。

これまで自然は人間が管理してきて、概念としては森もジャングルも人工のものになっているわけで、それは近代の問題ではなく弥生時代からそうなのですが、それが社会であって社会としては資本をたくさん持つことが正義になります。

その点で遅れを取る日本はグローバル化どころかオワコン国家になっていくことがわかりますが、その中でも資本を持つ人が勝てるルールだけは変わらないので、それが格差が広がっていく正体です。

個人として資本を持つためにどうしたらいいかと考えるのはうまく生きるためのやり方の1つですし、そうやって動く人にとってはAIとかWEB3.0の世界は味方になるでしょう。

一定以前の世界観へ立ち戻ったほうがいいというのは、資本主義的に生きる以外の生き方というか、社会の仕組みの話ではなく個人の世界観のことです。

なるべく自然に生きることはいろんなことを諦めるようになるというか、考えなくて良くなる生き方だと思っています。

僕個人としては資本をたくさん稼いでどうとかよりは、猫のような盆栽のようなそんな生き方を目指していて、そのため哲学や思想というものを大切にしていきたいと思っています。

どっちかというのも極論なんですが、とりあえずお金がないと幸せになるかどうかは置いといて様々な不幸とは共存することになります。

社会とか会社とかが補償してくれることは絶対にありえないので、そこに期待して何も動かなければ痛い目を見るときが必ずやってきます。

僕はそれは嫌なので経済的にというか資本主義社会的に生きようともしているし自然的に生きようともしていて、その矛盾が自分の中で共存してるため若干今はシンドいんですが、動いてるだけマシかなとは思ってます。

近代国家を作るために僕らが受けた教育、常識、ルールなんてものが崩壊したとしたら何を信じますか?

家族やペットや友達を大切にしたければ見つめなければならない現実がもうそこにあって、わけがわからなければ鬱になるかもしれません。

でも「よくわからない」という世界が当たり前になったときに、何を信じるのかは今よりも自由です。

答えばかりを求めていたら、いつかなにかに行き着くのでしょうか。

行き着いた場所には何かがあるようで実は何もない空間なのかもしれないし、外側から見たらそれが実存するかしないかわからないんです。

AIが作った写真にはたしかに人がいて、何らかの世界があります。

ただそれを実存するかどうかを確かめるすべがないということです。

わからないことを考えてくことが哲学なのかというとちょっと違っていて、例えば死後の世界について考えても死んでみるまでわからないので意味はありません。

僕は今生きてるこの時間をより良くするために考えることが哲学だと思っていて、これからAIありきの世界にたどり着くなかで人間が人間らしくいるためにどうしたらいいんだろうなんてことをここ数年ずっと考えています。

それにしても猫には特に関係がない世界で、今と同じくゴロゴロ寝てるだけだと思います。

これはAIを生み出した人間特有の悩みなのでしょう。

ただちゃんと考えてればマズイ未来ではないんですよね。

社会がマズイことになっても僕にとってその未来は不安なものではなくて、逆に面白くなってきたと思っているしいろんな可能性を感じています。

ちゃんと考えることがとにかく大切で、それについてはAIは教えてくれないと思っています。

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