太陽は買えない

昔ベトナムのとある小さな町にしばらく滞在していたときに、街中を歩きつくして探し出した最安かと思われるテーブルが設置してある屋台で飲んでいた。

しばらくすると酔っ払い3人組に話しかけられた。

そのうちの1人は前歯が抜けているが、顔は20代に見えた。

老けているのか若いのかわからないその酔っぱらい達がなにやらいろいろと話しかけてくるのだが、英語が話せないようで何を言っているかわからなかった。

しかしそこは、ローカルに馴染むことに関しては百戦錬磨の旅人兼酔っ払いである僕には大した問題ではなく、酔った勢いで仲良くなった。

会話がわからないのだから何を話したかはよく覚えてないが、楽しかったのを覚えている。

「モッ、ハイ、バー、ヨー!」という掛け声で何回も乾杯をした。

「1.2.3.乾杯!」という意味で、何度も乾杯をして飲むのがベトナム流だという。

そのうち酔った彼らが「もう帰るよ」と言い出して、瞬間ふと我に返った。

というのも、そのまたさらに昔、フィリピンのミンダナオ島で仲良くなったバディとドンという地元のフィリピン人と飲みに行ったときにお会計を全部払ったことがあったからだった。

「実はお金を持ってないんだ…」

お会計時にそういう彼らの分もまとめて払った。

払わされたというと騙されたように悪い感じがするが、その時の僕はまあそんなこともあるよね、くらいの気持ちであった。

地元の人しか絶対にたどり着けないようなお店を紹介してもらい、何より支払いこそしなかったが陽気ないい奴らだったからだ。

お会計も日本円で1000円。

騙されたというような金額でさえなかった。

ただ何となく、ちょっとだけ心のなかでザワッとするものがあったというだけで。

その時の事を思い出したのだった。

そこそこの年齢に見えた彼らは僕と同い年だった。

仕事は何をしているかはわからなかったが、裕福層にも見えなければ裕福そうな人がそもそも来るような飲み屋で出会っていない。

単純な所得で言えば海外を貧しくお金をかけずに放浪をしている日本人の僕のほうが、まだいくらかは多かったはずだ。

彼らもそれはそう思っていただろう。

しかし彼らは黙って奢ってくれた。

満面の笑みで「ええねんええねん!おやすみやで!」と言っていた気がする。

旅行者がいるような街でもなかったから外国人が物珍しかったのか、モッハイバーヨーに何度も付き合ったからなのかわからないが、なんだか情けなくなってしまった。

一瞬でもその人を疑ってしまったことを、だった。

旅人ならこういった経験は少なからずあると思う。

良かれと思ってやってくれたことなのに、騙されているのではないかとかボッタクられるのではないかなど疑ってしまう。

その自分の貧相な心に情けなくなってしまう。

そういうことがあると「お金なんてなければ」なんて思うこともある。

それはこの社会のルール上無理な話なのだが、自分の中でお金がそれほど大切でなくなればそんなことも思わないのだろうと考えた。

お金が減っていくというある種の危機感を旅人はかなり持っていたりする。

なぜなら旅人は働いてるわけでもなく生産性がまったくない種族なのだから、お金が入ってこずに出ていく一方なのは当たり前のこと。

場合によっては風前の灯火である残金の中から、我慢すればいいものをビール代を捻出して酔っ払ってみたりもするのだ。

増えるとか減るとかそういう感覚に取り憑かれ、人の優しさに気がつけなくなってしまう。

減ることが怖いと感じてしまう。

旅人でなくともそういう人は今の資本主義な世の中多い。

いや、ずっと昔からお金が主導権を握ってしまったときから人はそうなってしまっているのだろう。

無条件で差し上げるなんてことは基本的にはない話で、家族とか大切な人だとかある程度の関係性を抜きにしたとしたら、男が女に下心を添えビールを一杯奢るアレくらいしかない。

それでも、ベトナムアニキのように理屈と損得勘定抜きにしてご馳走してくれるなんて瞬間はあることにはある。

そういう感情的な瞬間は理解ができるものではないが、確実に心は動かされそれから少しだけ内面が変わっていくのだと思う。

そういう時間との出会いはなにも旅をしてなくてもいいのだが、なぜか圧倒的に旅をしている時のほうがそういうことが起こる。

矛盾していると感じるのが、そういうことが頻繁に起こる時こそ生産と切り離されてしまっている旅人はお金が減るのが怖くなっていたりする。

素直にありがたがるより前に疑ってしまう。

どうすればそういうことがなくなるのだろう。

そんなことを特に考えながら最近は生きているが、シンプルにお金を必要としなければいいだけの話なのだろう。

最近すごく思うのだ。

“お金がなければ生きていけない”なんて嘘だって。

確かに電車に乗るのも、服を着るのも、酒を飲むのもお金がかかる。

ただお金がかかることと生きることは実際は別だ。

そして生きることと稼ぐこともまた別だ。

稼ぐために生きることが大前提になってしまえば、損というものは恐ろしいもののように思うし、得というものは素晴らしいもののように思う。

しかし本当に恐ろしいものは疑う心であり、本当に得なのは素晴らしいと感じることができる素直さなのだろう。

それがなければそれは働いているのではなく働かされてるというのと同じように、生きているというよりは生かされているということになってしまうのだと思う。

先日、残り少ない山梨滞在の中だったがいろいろあって無理やり弾丸で長崎と佐賀に行ってきた。

思えば移動ばかりだったが、幸いなことにずっと晴れていた。

昼から日本酒を飲み、海辺を散歩し、人と言葉をかわす。

ふと思った。

限られた時間の中で、限られた場所で限られた人と過ごすその空間というものは、実は選択しているようで選択の余地がない。

その時が嵐なら、すべての思い出が良いものにはならないだろう。

その日、その瞬間、太陽が照っていること。

暖かいと感じられるそんな空気。

例えばそれは選択して手に入れるものではなく、それを本当はわかっているからこそ、幸せだと感じられるのだと思う。

多少の損得感情よりは遥かに人間らしい感情と感動がそこにあった。

未来でそれが買えるようになる時が来たら、人はほとんど人でなくなり、お金がすべての神となり得るのだろう。

メタバースや仮想現実世界はそういった危険性をはらんでると僕は思っている。

お金を払って接続さえできれば、理想が手に入ってしまうのだから。

ただ、太陽は買えない。

それが本質であることは変わらない。

ベトナムの田舎の居酒屋は仮想ではないし、おばちゃんや子供がそこに接続できるとは限らない。

酔っ払い同士にはインターネットなんて関係がない。

だからコミュニケーションが大切で、そこには必ずしも言語が必要なわけではない。

晴れてるから、天気がいいから気持ちがいいねというその感情と同じように、目の前の人との空間を楽しもうとすることが本当は一番手っ取り早い幸福論なのである。

そんなことを考えながらこれから旅をしたいし、そんな空間にもっと触れていく旅をしたい。

なんとなく、旅も仕事もある程度やった今だから見える世界があるような気がする。

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