以前FACEBOOKに投稿した記事。。。
最近バイク教習に通ってるのですが、昨日「桑原じゅんさんですか?」と声をかけられて。
話してみると世界を旅してて地元が同じで姉と義理の兄が僕と同級生で…などなど共通点ありまくりで知っててくれたようで。
まさか教官に「お前なかなかセンスいいな」「本当ですか!ありがとうございます!」とかガラにもなくハキハキやってる時に誰かに声をかけられるとは思っていなかったもので油断しすぎていてめっちゃビックリしてしまいました。
お恥ずかしいが、なんか地元でそういうのもないなと思ったので「今度飲みましょう」とか誘ってみたりもした。
思いかえせばそんな事がこれまで何度あったことだろう。
街で知らん人から声をかけられてもそんな動じないくらいには慣れてしまったこと自体ちょっと不思議だなと感じたりする。
銀座歩いてたら声をかけられたり、役所や銀行で担当者に声をかけられたり、旅しているときなんかニューヨークですれ違いざまの車に乗ったアメリカ人に「Are you Jun!!!???」とか話しかけられたこともあった。
僕は芸能人でもなんでもないし、ただ旅して髪切っていた事がなんかフワッと広まって、本が出たりテレビに出たり、その結果そうなってしまった部分が多少あるものの基本的には一定の人間だと思っていて。
昔から僕を知る人は変わったという。
旅している頃に知った人は自由人だという。
最近知った人はビジネスマンだという。
僕の中では、何も変わっていないのに。
ずっと同じことを考えて、同じことを繰り返しているだけの人間である。
ただ思いついたことをし、やりたいことをして旅して生きているだけであり、お金持ちでもないし、野宿もするし、特別なにかがすごいわけでもなんでもない。
仕事とかは変わってても、やってることは変わっていない。
それはこれからも同じなはず。
しかし周りの目は常に変わり続ける。
旅していた頃の僕をブログなどでよく見ていた人は、今の僕のギャップを感じるのだと思う。
その差に理解が及ばないとき、たいていそれは批判にかわる。
それは何度もあったけど、不思議な体験であった。
あのときはこうだった”のに”という事を本当によく言われた。
中学の同級生に先日バッタリあったとき、酔った彼にボロクソに言われた。
何をそんなにイラついているのかもわからないし、そもそも10年くらい会ってもないのに当時のイメージと今の実態が違うということがそんなにあなたにとって問題なのですか?という事は思った。
しかし問題なのだから批判に変わるのだろう。
反対にそんな僕を応援してくれる人もいる。
その人たちもまた一定であったりする。
客観的に思うことはその人たちは僕が僕であることを単に”認めて”くれている。
おそらくどころか十中八九僕のことは理解していない。
いや、そもそも理解しようとさえしていない。
その人たちにとって僕は「わりとどっちでもいい」存在なのだと思う。
「好きなようにやりなさい。どんなあなたでも私には関係がない。」
そう言わんばかりの”投げやりさ”を感じる。
その関係性がとてもありがたく、心地よいと思ってしまう。
だからその人たちに対しても僕は何かしなければならないと思う。
それは強迫観念ではなく、無償の愛に近いようなものなのだと思う。
何かの漫画で読んだのだけれど、無償の愛はあっても無償の友情はないというセリフがあった。
妙に納得する部分がある。
友達というものはギブアンドテイクなのだと思う。
それは会社や学校やサークルといった組織的な中での人と人との関係も同じで、とても合理的なものなのだと思う。
組織化している以上方向性を同じにする必要があり、ある程度の相互の理解は求められる。
認める認めないではなく、解るか解らないかで判断される物事も多い。
そうして成り立つ関係性は1つの人と人との形なのだと思う。
その中でもし自分が方向性を変えようと思ったときに、それは理解することから認めることへと周りは対応を変えなければなくなる。
もしくは自分が変えようと思ったと書きつつ、卒業だったり就職だったり、自分の意志で選択したとはいえ外的で強制的な環境の変化に対しても同じ。
理解できていた人が、理解できなくなる瞬間。
この瞬間がターニングポイントなのだと思う。
理解できないけど認められるのか、理解できないから認められないのか、理解できるから認めるのか。
友達が友達ではなくなるし、同僚が同僚ではなくなる。
愛か、ゼロか。
卒業とともに自然と会わなくなる人や、パタッとなくなってしまう人間関係はつまりそういう事なのではないだろうかと思う。
ゼロと言ってもマイナスではない。
会えば普通に話すだろうし、イチイチ関係を悪くすることはない。
ないけど、プラスもないというような感覚。
誰もが生きてる中でそういう風に変わっていく関係性というものを経験していると思う。
つまりある方向性に基づく関係性の場合、繋がることには繋がる理由が必要で、それを理解する必要もまたあるということ。
同時に理解の程度によって切れるようなものでもあるということ。
そういう関係性がなんかしっくりこないため、僕はなるべく人を理解しようとしないようにしている。
価値観の違いがある以上、そもそも理解なんてできないとさえ思っている。
それでも「その人でいい」と思えるようにするためにはある一定の距離感が必要だと思っていて、それ故パーソナルスペースは人よりは広く、猫みたいな感じなのかもしれないと自分では思う。
基本的には誰が何をしててもいいと思ってる。
自分も好き勝手生きているのだから、人の人生にとやかく言う資格はないし。
理解もされなくていいと思ってる。
最初の時点ではただ人に興味がわかないということは正直あるけど、近づいて嫌なら二度と会わないくらい離れるし、逆もまた然り。
批判されればさらに距離はとるというのはある意味でシンプルなことではないかと思う。
好きでいてくれるのであれば何かしたくなるというのも自然なことのような気がする。
経験上、僕のような適当な人間を認めてくれるような人はたいてい自分でも好き勝手やっている人が多い。
フラフラ旅をしてみたり、職をコロコロと変えてみたり、結婚や家庭に縛られず適当に生きていたり。
社会的にどうのこうのというようなステレオタイプ的な基準なんかに当てはまらず、思うように生きている人たち。
逆に旅をしていなくても、職は一定でも、結婚して子供がいても、気持ちに余裕がある人はやはり他人の領域を犯すということはしない。
社会的にちゃんとしている人でもちゃんと認めてくれる人はいる。
その人たちは僕のことを友達だとか先輩後輩だとか同業者とかお客さんと美容師とか思っているかもしれないけど、僕にとってはまた違う特別な感情がそこにはある。
年に1度しか会わなくても年に1度しか電話しなくても、数年会わないとしても、それでも僕は深いと感じる。
これまで生きてきて、人を認める事の重要性については自分を認めてくれた人たちがいたから気がつけた。
その人たちはきっと、これから僕がどこで何をしようとも「ふーん、いいじゃん」「おもしろいじゃん」などと話半分に流しながら「とりあえず飲もう」というようなことになるのだと思う。
理解する必要がないのだから質問と説明とか議論とかも必要ないし、そんなつまらないことに時間はかけないという暗黙のルールがあるような気もする。
なんとなく、そんな事をやってるんだなーくらいの認識で終わってしまう。
僕もその人たちに対しては同じように思う。
つまり実際何やっているのかはそんなによくわかってはいない。
でもその人がその人であるということが重要なのだから、やはり何をやっているかなんてどちらでも良い。
そんなザックリした関係性とザックリした時間がとても心地よく、そういう時間を生み出してくれる人たちにはやはりビールの一本でもおごらなくてはなどと思う。
社交辞令的に先輩が後輩におごるみたいなそれとは根本的に違うそのビールというものはとても美味しく感じたり、忘れられない時間になったりする。
これからも旅を続ける中で、とてつもない数の人と出会っていくと思うし、いい思いも悪い思いもたくさんある上でいろんな関係性が作られていくと思う。
何をしていても、どこにいても、それでも自分が生きている以上生きる。
だからあなたもあなたもあなたも、また会うときに会いましょう。