という話。
僕は芸能人とかに興味がなく、これまでの人生いわゆる推しとかがいたことがなく、誰かのファンというものになったことがありません。
しかし最近毎日将棋を勉強している中で、何人かの棋士のファンになってしまいました。
その中の1人ひふみんこと加藤一二三九段が「棋士は考えることが好き」ということを言っていました。
なるほど、僕が将棋にドハマリしている理由はそれかもしれない。
【考える】という行為が僕は好きです。
なにか興味がわいた分野について深掘していく。
その時々で対象は違うので、平たいものではなくトゲトゲした知識になっていきます。
たとえば食について、教育について、法について、スポーツについて、政治について、ゲームについて…などそのそれぞれのジャンルのすべてを知っているわけではないのですが、食の〇〇とか教育の〇〇とかそういうピンポイントに興味を持ったところに関してはめちゃくちゃ詳しくなっていく。
その繰り返しをしていくなかで知識が興味を呼び、興味が知識へと変わっていきます。
それが生活であり、趣味であり、人生であり、好きなことなのです。
前置きが長くなりましたが、そのように毎日過ごしている中で最近よく考えていることが【many】と【much】の違いについてです。
英語がちょっとわかる人ならわかると思いますが、How many? How much?はそれぞれ【どのくらいたくさんか】というような意味を持ちます。
どういうポイントで使い分けるかというと、数が数えられるものはmanyであり、数えられないものはmuchなのです。
人間は1人2人と数えることができるのでmany peopleなのに対して、数えることができない感謝の気持というものはThank you so muchになるわけです。
【数】
これはとてつもなく便利なもので古代から使われている概念なのですが、このテクノロジーが進歩しまくっている2021年においても数で表すことができないものは一定数あるということです。
それはつまり【可視化】ができるかできないかという違いとも言えます。
目に見えるもの、見えないもの。
目に見えるものを信じるか、目に見えないものを信じるか、またそのどちらを大切にするかという意味で人は二極化されていきます。
そしてその2つの性質同士は決してお互いを理解することができないものだと思います。
大切なポイントは「理解はできないけど認めることができるかどうか」で、それができない場合は孤立していくでしょうし、人を認めることができないという感覚はこれからの新しい時代において特に自分の首を絞めていくという意味では厳しいものとなっていくと考えています。
つまり理解するしない、できるできないはどちらでも良いということです。
可視化されるものや数を信じる人というのは言い換えれば打算的ともいえます。
打算的な人とはつまり損得で物事を考える人のこと。
得になることはするし、損になることはしたくない。
そこがハッキリしているから人付き合いもかなり制限されていきますが、そのかわり線を引いているからこそストレスは少ないしリスクも少ない生き方であると言えます。
計算ができるがゆえ理論的とも言えると思います。
仮にそれをmanyタイプの人とすると、反対にmuchタイプの人とは【感情的】な人のこと。
数字に左右されず、自分の直感にしたがって行動を起こす人。
好き嫌いとか、意味とか意義とか、精神とか神秘とかそういうことをよく考えるタイプの人。
ある意味動物的とも言えるかもしれません。
猫と生活していて思うのは猫は完全にmuchタイプです。
数という概念が存在していないから必然的にそうなのでしょうが、寝たいときに寝るし水飲みたいときに飲むし、なければ「おい、その水ワシにくれや」みたいになるし。
動物はみんなそうだとして、よく考えれば人間も生まれたときはそういう猫みたいな感じでmuchタイプの人であるはずなのです。
それがmanyタイプに変わる瞬間がどこかで訪れたということです。
数の概念を知り、数を信仰するようになった。
そういうことなのではないかと。
学校では点数で評価され、社会に出れば売上やら実績で評価され、競争する。
その流れの中でそうなってしまうのも仕方がないような気はしますが、お金とか物とかそういった数字がもっとも大切であるという考えは極論であると僕は思います。
数字による成果と幸福を結びつけることで、人は【幸せを可視化】できます。
こんだけ頑張ったなとか、豊かだなとか。
それが間違っているかというとそれも1つの形なのだと思いつつ、本質はまた別のところにあると考えています。
たとえばキーホルダー。
お土産でもらったら困りがちなものです。
一緒に行った旅先ならまだしも、一方的にもらう感じになった時のキーホルダーの扱いほど困ることはないと思ってしまいますが、ある条件を満たすと手放せなくなる大切なものに変わっていきます。
たとえば好きで好きでたまらない的な、あわよくばお付き合いしたい的なことを思っている女性から「おみやげです」とキーホルダーをもらったとしたら、むしろ喜んでつけるわけです。
その感情的な衝動という数値化することができないものこそ僕は人間の本質的な部分なのではないかと思うのです。
つまりお金や物質ではない豊かさを感じられるという部分。
それが幸福に変換されるという事実。
つまり大切にしなければならないのは【キモチ】や【ヒト】なのであると、結論そのように思っています。
綺麗事などではなく、そうして生きていくべきなのかなと。
ずっと昔から何度も書いていることですが、共有とかギブとかなぜそういったことが大切かというとこのmuchタイプの生き方が人にとって本来大切だと思うからです。
損得で物事を考えてたら共有もギブもできるはずがなく、むしろ逆に専有やテイクをすることが大切だと考えます。
打算的とはそういうことであり、それが間違っているか正しいことかはさておき、これからの時代とはマッチしないなとは思っています。
与える人(giver)と奪う人(taker)
この差は段々と表面化していくと思います。
奪う自覚がなかったとしても「〇〇してくれたら、私も〇〇をしますよ」というギブアンドテイクが前提にある人の場合は、人のために自ら動くことは決してないのである一定の成果以上出すことは難しいだけでなく、会社や学校など半強制的に依存せざるを得ない環境が崩壊したとしたら完全に孤立します。
その環境のあり方が今は変わってきているので生き方も見直していかなければならないタイミングなのかなと思っています。
シェアもギブもですが、相手がいないとできない事です。
相手とは誰なのでしょう。
その相手が現れない、いない、そういう場合はたいていかわりにお金やモノ、もしくは打算的な関係性のみのヒトが目の前にいることでしょう。
けどそれらはいざというときに助けてくれることも無いし、守ってくれるわけでもない。
幸福の象徴では決してない。
逆もしかりかと思いきや、与える人は人もモノも両方を持つ可能性を秘めています。
それゆえ本当の幸せがなにかと知ることもできる。
与えることは損失ではなく、奪うことは特ではない。
ここに気がつけさえすれば基本的には生きていて困ることはないと僕は思っています。
将棋の格言で【王手は追う手】というものがあります。
必死になって王を詰まそうと王手をかけ続けていると逃げられて負けてしまうというもの。
「奪うことばかり考えるのではなく、視点を変えるとなにか見えてくることがある」というふうな教えもそこにあるものと僕は思っています。
二兎を追う者は一兎をも得ずというようなことわざもあるように、歴史と言葉はいろんなことを教えてくれます。
面白いものです。
与える人と奪う人。
結局の所どちらでいたいかだけの話。
どちらかというと僕は猫になりたいです。