【困ったら塩をまくのはなぜ?ちょっと古代日本の話をしてみる。】

もう困ったらとにかくなんでもやろう。

なんもやる気が起きないのはわかる。

だけど「ここが切り替えどきだ」なんて思って立ち上がったときはもう止まらないこと。

走り出したら止まらないこと。

ここで後ろ髪引かれるように「あぁ、でも」とか言ってしまえば引き戻されて終わる。

逃げ切れずに捕まってしまい引き戻されて終わる。

どんな世界でも、どんな物事でもそうなのだろうけど追いつかれないくらい進んでしまえばいい。

行くところまで行ってしまえばもう振り返っても見えないのだから。

そんなことは誰もが一度は経験したことがあるかもしれない。

そんな神話が実は日本にはある。

ここ最近なんか病んでますオーラビンビンに出して、その後復活してきました的なことをバンバンに出して、いつまでそんなコト言ってんのって呆れられてたのはわかってる。

邪悪な縁もぶった切ったし、怨念が宿ってそうなモノというモノを全部捨てた。

70リットルゴミ袋を10袋以上。

昨日すべてのシメに昔からなんか節目に引き寄せられる山の奥にある超絶古い神社へ行き、結構高い日本酒をお供えし拝んでてきた。

そのままその怨念的存在とここ2ヶ月以内に関わった、もしくは会わせてしまった家族や従業員にお酒を分けて少しだけ飲ませてきた。

自宅や店の玄関にも酒をまいて塩をまいて盛り塩をして。

二度と来るなよという意味と、清めるという意味と。

日本ではこういった穢を清める儀式的行為は奈良時代にはすでにあったという。

もちろん僕自身そんなことは生まれてこの方やったことはない。

やる必要を感じるほど困ったことがなかったからだ。

僕は特定の宗教を信じているわけではないし、この先特定の神を信じるということはないと思う。

ではなぜ?と思うかもしれないけど、理屈じゃないんだよなと、やっていて思った。

因縁との決別のために、こちらが一方的にやること。

アクションを起こすということにまず意味があり、その次にその行為の効果がどうなのかという話になるのだと思う。

結局目に見えないものなのだから、どうとかはわからない。

だけどそれで後ろ髪を引っぱる手を振りほどくことができるのかもしれない。

日本では古来から何かあれば神に祈り、自然に祈り、従って生きてきた…はずなのだ。

古墳時代に仏教が広まり、日本古来の信仰と仏教とで争いが起こった。

その中で神道のあり方が定まり、仏教と融合し、そして明治になり分離し、敗戦を経て今は神社という観光地があるだけになってしまった。

神道?なにそれ美味しいの?という状態である。

インスタ映えする神社はグーグルマップの評価もあがり、観光客がたくさん来る。

本当に古くからあるこの国を守ってきた神社はその近くで寂れて朽ちていたりする。

そういう矛盾が日本を覆っている。

僕は日本のことが好きだけど、やっぱり将来への不安はある。

僕自身の不安ではなく、日本国そのものの歴史がなくなるなという不安。

歴史の中での一番の問題点は僕は第二次世界大戦後のGHQ占領による戦後教育の普及にあると思う。

戦後80年が経とうとしている中、日本のほとんどの人は「なぜ清めるために塩をまくのか」なんてこともやっぱりわからなかったりする。

それはなぜかというと、日本の成り立ち、歴史、古来からある信仰を知らないからであり、つまり日本人とは何か?という真理を学校で教えてくれないからである。

個人個人が悪いのではなく、教育が悪い。

これがやっぱりまずいことで、イギリスの昔の歴史学者は「自国の歴史を知らない国は100年で滅ぶ」と言っているけどうなずける。

日本を滅ぼすのに核兵器もミサイルもいらないんだ。

あと20年もすれば少子高齢化も手伝って、この世から本当に大切にされるべきものはどんどん消えていくのだろうと思うし、一度消えたらもう戻らないという歴史の重みを知る人がほとんどいなくなってしまう。

疫病が流行ろうと、電気やお金がなかろうと受け継がれてきたものがあるはずで、メディアや嘘で盲目的になればそれが一体何なのかはわからないものだと思う。

しかし「日本古来の宗教を広めるぞ!」などということはしない。

というかできない。

僕は僕の中で信ずるものがあり、それで精一杯だからだ。

それはどこかの神様がああしなさいとかこうしなさいとか言うものではない。

太陽とか米とか土とか水とかに感謝するということ。

もしかしたらそれを少しこのようにして文字に起こすことはできるかもしれない、といった程度でしかない。

思い返せばずっと昔からそういう思想と哲学があったから世界を旅したのだと思うのだけど、人間の社会で揉まれて揉まれて揉まれすぎて跡形も無くなりそうになったからかより一層その気持ちが強くなったように思う。

人間と人間の関係なんてものが人生の割合として大きくなると、幸せや不幸を人に委ねることになるでしょう。

誰かが好きでいてくれたら幸せとか、誰かに嫌われたら不幸だとか。

自然が僕を好き嫌いするんだろうか?

そんなことをふと考えると、そういう事ではないことがわかる。

好きも嫌いも何も、それはそれ、これはこれ。

自分は自分でしかないし、自分は自分でさえない。

人間の関係性の中で見れば自分とは他人からみた自分でしかないわけで、他人が「好き」だといえば好かれる自分になる。

簡単に自分というものが変わってしまう。

ところが自然と自分との関係性で見ると、自分も自然でしかない。

だから自然の中では自分は自然という自分でしかないし、自然は自分を定義しないので自分にさえなれないということ。

だから自分とはなにか?なんて考えることさえ意味を持たなくなる。

自分のあり方とか、自分の行き方とか、人との関わり方とか、そういうことを悩む時間を減らすということは、自然と生きる割合を増やすということなのだと思う。

それがつまり「自然を信じる」ということで、感謝をするということなのではないのだろうか。

アニミズムという考え方は世界的にあって、アニミズムとは万物に霊が宿るみたいな考え方なのだけど、これはつまり日本だけではないということ。

ただ現代日本ではあまりこういう考え方はないよなと思う。

それよりも誰が何を言っているかを気にする。

ブッダもキリストも「人間としてこうありなさい」という人間目線での生き方を教えている。

だから強いしわかりやすいし信じられるのだと思う。

つまり共感。

対して自然というものは目に見えないもの。

葉っぱ一枚を見ることはできても森全体を見ることはできないように、海を見ることはできても海の全体を見ることはできないように、自然とは実は目に見えないものだと僕は考えている。

そういう見えないけど意味がありそうなことってのがこれから重要になっていくと思っていて、とにかくそういうこと言う人は増えていく。

これは時代だかはもうそうなるものだとしか言えない。

なぜ塩をまいたのか?

その答えも単純で、やっぱりそれを信じようと思ったからだ。

日本古来の考え方として死というもの、というより死を運ぶ邪悪なものはケガレであるという考え方があった。

死の国である黄泉の国から逃げ帰ってきたイザナミノミコトという神様は海水で身を清めてケガレを落としたという神話があるのだけど、塩で清めるというのはここから来てるのだろう。

お相撲さんが土俵に入るときに塩をバーッとまくけども、あれも相撲はそもそも神事だから同じように儀式的意味合いがある。

意外と目を凝らしてよく見てみると日本の各地には古代から1000年以上続くような風習がアチコチに残っている。

僕は意外と困ったときはそういうものに頼ってみるのもいいんじゃないかと思う。

病院に行って入院して、ワクチン打って薬飲んでってそういうことが文明と叡智なのかもしれないけど、それで治らないものも実際にある。

何でもかんでも神頼みがいいとか自然のものを食っとけばいいとかではないけど、大切な概念になってきていると感じる。

神話や日本の真実を知りたい方がいれば全然お話するよ…

飲みながらでも…

しかし酒はあんま良くないなとここ数日酒を飲まないようにしていた。

けど、お清めということで一杯飲んだらおかわりしたくなってしまったのでどうしようかと🍻

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