あまりいろいろ考えてみても、そもそもこの世の中はわからないことが多すぎるし、これからもっとわからなくなる。
理由は2つあって、1つはあまりにも目に見えないものがこの世界には多すぎる。
霊的なものだったりはもちろん見えない。
そうでなくてもそもそも地球や太平洋や森なども全体像が見えないのだから目には見えていない。
それは広すぎて見えないのだけど、逆に小さすぎて見えないものもある。
例えば人間を細切れにして小さくしていくと、最後は素粒子になる。
目で見えるか?さわれるか?
無理なんだそれは。
猫も机も車も最小化すると素粒子になる。
人と人との触れ合いも素粒子と素粒子のふれあいという事になり、実際に人間というものが存在しているかもはや謎なのである。
例えば人間の皮膚をツンツンしてみるとぷにぷにした感触であるが、テーブルをコツコツしてみると全く違うことがわかる。
素粒子と素粒子がぶつかったときの反応がそれぞれ違うということで、なぜ違うのかというと波動が違うからだ。
素粒子とは波動のことで、つまりこの世の全ては波動でできていると言える。
もうわけがわからない。
見えてるそれは、実は見えないし動いているものなのだから。
そういったものが実は人間や世界を支配しているわけで、自分が頭で考えて選択したようなこともよくよく考えると謎なのである。
自己意識とは何か?
あるのかないのか?
それがそもそも説明がつかない。
もうひとつの理由はテクノロジーの進歩。
いつの間にか世界はグローバル化していった。
なぜか?
テクノロジーやAIが発達すると、いろんなものをまとめて考えるようになるからだ。
白人、黒人、黄色人種。
クルド人、ネイティブアメリカン、アイヌ人。
この世にはおよそ似て非なる人種がたくさんいる。
民族ごとに遺伝子が違うから、体に合う食べ物や腸の構造だって違ってしまうのだ。
なのにそれを「つまり人類ですよね?」と一緒くたにしてしまうのがロボット。
色を音に変換する機械で様々な肌の色の人種を見てみるとみんな同じ音を奏でるという。
人間からしたら猫は猫だというように、ロボットからしたら人間は人間でしかないということだ。
もはやそれは人間に理解できるレベルの話ではない。
理解ができないからこそ、これから人間はAIやテクノロジーやロボットに理解を求めるようになり、人間は追従していくようになっている。
つまりAIが人間の動きを真似るのではなく、人間がAIの動きを真似るようになる。
将棋はすでに面白いほどそれを体現してしまっている。
リンゴとみかんもつまりは果物。
もっと言えば食べ物。
もっともっと言えばその他大勢の植物の中の1つ。
もっともっともっと言えば人間や猫も含めた”自然”でしかない。
そうやってまとめていくと、コンピューターみたいに0と1の世界になるから、人間からしたらもう何がなんだかわからなくなってしまう。
「これはなんだろう?」
「あれはなんだろう?」
そのうちそう考えることをやめてAIに聞く時代がやってくると思っていたけど、ここ数年で急激にそういう世界になってしまった。
アートも芸術も、技術も知識も、もはやAIになぞる時代。
そんななかで自分が生きて何か残すことに意味があるかどうかさえ考えなければならないが、僕はそれをやめたらもう人間はなにもやることがなくなってしまうと思う。
だから”何か”はやらなければならないが、その何かが結構難しい。
「そもそも自分とは何か?」という社会においての存在意義や人間としての存在意義さえ決められてしまう状況になってきている。
そのなかで、自分の存在意義を何かしら自分で見つけてみようとしたときに、意外とそれは”どうでも良いこと”に見いだせるような気がするのだ。
というのも、究極まで無駄を省き合理化していくのがロボットやAIであるとしたら無駄なことこそ人間にしかできないものになると思う。
生産性がなく、感情的で、不自然的であるもの。
例えば戦争なんかもそう。
あれは儲けのためだとか大義名分だとかいろいろ原因について言われるのだけど、極論なんでやるかというと暇だからだと思う。
他にやることがないというか、持て余してしまっているから争うのだと思う。
もしも動物を狩って食っていくのに精一杯だったら戦ってる場合じゃないと思うのだ。
持論だけど、AIがいろんなことを人間に代わってやってくれるようになったら最後はみんな暇になって戦うような気がする。
ただそうやってしまうと人間として何をやっているのかいよいよよくわからなくなる。
そんなことをするために生まれてきたはずじゃないのに。
非生産的なものでいうと芸術やアートはそれに当てはまる。
今は1分の音楽をAIが10秒で作ってしまう時代だから、アートなどは価値がないことのように思うかもしれない。
音楽も目には見えないものだけど、あれらも振動というか波動なのだと思う。
だから時を超えて伝わる。
なぜ500年も前のヨーロッパの人が作った音楽を僕たちは知っているのか、心が動かされるのか。
そういうところに実は人間としての存在意義のようなものがあるように感じていて、後世まで残るものは統計やデータを元にAIがポイっとくるれるものではないように思う。
つまりそこには波動のような見えないものがあるはずで、意外とその”わからない”とか”見えない”というものは人間にしか作れないと思う。
それそのものが己の魂的なものだからだ。
そんな自己の世界を突き詰めて表現したときに、それはもしかしたら古代遺跡のようにずっと残り続けるものになるのだろう。
それらが生産とは切り離されて作られているものだから、そこに労力と時間を割く人が少ない。
実際もし全員がアーティストになったら国なんて3秒で崩壊するが、誰もが自分にしかできなそうな”無駄なこと”を突き詰めていくことは重要だと思う。
いよいよお金や物質最優先の世界は終わるけど、お金や物質に引き続き囚われてしまえばそういうこともわからないまま戦争のようなところへただただ突き進んでいくのだろう。
それが子孫へ残していきたい世界なのかどうかを考えたときに、僕はあまりイケてないと思うから、かつてジョン・レノンが歌でどうにかしようとしたように自分なりの何らかの無駄を突き詰め表現をしていこうと考えている。
それで戦争がなくなるかどうかという話ではなく、暇な人たちが戦争は起こしてしまうのだろうが、せめてその無駄にな時間に自分の存在意義を見出し後世に伝えていくなんてことはしたいというだけ。
わけもわからず生きるよりは、そのほうがいくらかマシだと思うからだ。
僕も楽器はできるけど、音楽ではないアプローチをしていこうと思う。
それが旅と文字。
自分の旅と文字と哲学が同じ重さを持たなければ、それはチグハグな意味がわからないものになってしまう。
だからそれぞれ資本主義社会的にはまったく無駄なことなのだけど、それぞれを突き詰めてくことが大切だと考えている。
つまりなんかもう働いてる場合じゃない。
いずれにしてもこれからやることに生産性はまったくない。
何百日とそこに時間をかけてみても1円にもならないかもしれない。
それほど無駄なことなのに僕にとっては全く無駄ではないし、もしかしたら世界をほんの少しだけ変えられるかもしれないなんておこがましいことも考えている。
今自分が目先の多少の利益を手に入れてどうでもいい贅沢をするより、10年後50年後に少しでも跡が残るものを作る方が今の子どもたちやこれから生まれてくる人達にとってプラスになる可能性を0.001mmくらい残せるかもしれない。
そういう意味で無駄ではないと思いたいけど、物質主義で考えればやっぱり無駄なことだと思う。
ただ無駄を一生懸命やり、無駄を愛するということの意味と可能性をしばらくは模索していきたい。
その先に何があるのだろうかというワクワクだけは、決して無駄ではないと信じて。