【Nobody knows what’s going on. なにが起きてるか誰も知らない。】

一連の災いが全て終わって怨念と決別できたので最後に…。

「なにがあったの?」

この一週間で何回同じ話をしたかわからないくらい、いろんな人に会ってもらった。

これは本当に不思議な体験だったけど、みんな生まれも育ちも年齢もバラバラで出会ったタイミングもバラバラで職業もバラバラ。

なのに口を揃えておんなじことを僕に言った。

タイから帰国してる人、ハワイから帰国してる人など今しか会えなそうなタイミングの人もいたり、なんだか僕が今出会うべき人がみんなで予定合わせて会いに来てくれたみたいだった。

同時に怨念のようなドス黒いものときっぱりさっぱり決別することができた。

なのでこの話題は金輪際こういった電波でお話することはやめる。

お察ししてる人もいると思うけど、超身近な人のことで悩んでた。

飲みの場なんかに連れて行くこともあったり、バイク乗って一緒に旅したりしたことがあったのでこれで誰かわかったという人もいると思う。

プライベート、仕事も一緒にしていた人からの強烈な裏切り。

内容は金、欲、病と人間の闇が全て詰まったようなゲスすぎることなので言いたくないのだけど僕だけでなく僕に関わる近しい人も何人も不幸にし、傷を与えたことが何より辛かった。

高いところで足を踏み外して落ちた感覚があって、行くとこまで行くと思った。

実はわりと一度自己否定しすぎてもう人生終わったなみたいな時もあった。

深夜に山に入ってった時点でもうまともじゃない。

仕事もストップせざるを得なくなり多くの人に迷惑をかけた。

僕だけでなく従業員やパートナーがやってくれてたから滞ることはなかったにしてもおかしなことになってしまった状況も多々あった。

何もできなくなり、もうこれはまずいぞと思いながらもしがらみがありすぎて環境を変えることができずずっと火をかけ続けて沸騰している鍋に手を突っ込み続けているようなそんな毎日だった。

何もやる気が起きず、何もかもが嫌になっていて腐っていたといえばそのとおりで、今思うと情けないくらいなのだけど、どうにも出来なかったとしか言いようがなくて。

でも人と会ってやっぱ変われた。

言葉に救われた。

その人たちがみんな揃って言ってくれた中に「あなたの言葉が好き」ということがあった。

僕が書きおとした言葉に心を多少なりとも動かされ、その人が僕のために大切な言葉をくれようとした。

言葉が足を持って歩き出し、長い旅を終えて僕のところへ帰ってきてくれたようなそんな感覚になった。

自分に今必要なのは後悔や憎しみではなく、慈愛と感謝なのだと思った。

日に日に浄化されてくようなそんな感覚があって、二日酔いということを除けば毎朝が楽しくなってきた。

なんだかその清々しさを邪魔してくれるアルコールが良くないものに思えてきて、酒もちょっといい加減に付き合い方をかえようかとさえ思ってきて。

最後は小学校からの腐れ縁の友達と新宿でご飯を食べて東京をあとにした。

バスで山梨に近づくにつれて心拍数があがっていくのがわかった。

東京の雑踏、作られた感じ、無理している感じがものすごくしんどくて、それに疲れてドキドキしているわけではないことはわかった。

山梨という僕のホームのはずの場所が、家がある場所がもうその人の怨念のようなもので埋め尽くされているような気がして。

帰った瞬間にその人が買ったもの、触れたもの、もらったものなどをすべてゴミ袋に突っ込んで捨てた。

もらったパソコンはハンマーで叩き割ってやった。

とにかく痕跡をすべて消し去ろうと3時間位汗かきながら掃除しまくって、なんだかそしたらだいぶスッキリして。

これでようやく完全に決別できた。

ようやくキチンと歩みだせる。

一週間前、オーラとかエネルギーが見える方に「早く離れないと、魂抜けてて危ない。猫が心配してる」と言われてドキッとしたのも大きかったのでご報告までに猫との写真を送った。

「今は安堵してる。よかったね」と言ってもらえて、これで本当に終わったのだとさらに実感ができた。

帰ってきて片付けを始める前に、ニャンニャン言いながら歩み寄ってきた高菜先生を抱きしめてちゃんと謝ってみた。

「もう大丈夫だから」とひとこといったらなんだかものすごくずっと見つめてきて、なんだか見たことがない目をしていて、アホみたいに泣けてきて。

猫は言葉を持たない。

人間のように、信じるという関係性を築くために自分と人との間に媒介として言葉を持つことをしない。

だから何かを言うことは意味がないようにも思うし、何かを伝えることは難しいようにも思ってしまう。

だけど僕はそういうことじゃないと思って。

なぜ人は祈るのか。

言葉ではなく、膨大な他というものと繋がるための方法なのだと思う。

古代から人はそうしてきて、特に日本人は自然に祈りを捧げてきた民族だ。

戦後教育と憲法をアメリカに変えられたから現代の人はほとんどがその事実を知らずに生きているけど、自然や猫は何ら昔から変わらないので人間が一方的に関係性を変えてしまっているだけなのだと思う。

自然に感謝するということをやめたのだろう。

だから言葉のほうが大切になってしまったのかもしれないし、言葉だけで物事を片付けようとするのかもしれない。

僕もその因縁の相手と決別するまでに言葉ばかりを投げかけていた。

けど無駄だった。

寄り添う、思いやる、優しくするなんてのは実はそういうことではなく、ただ純粋に体を寄り添う、心で思いやる、心で優しくするということなのだと気がついた。

それらは想いというものであって、言語化できるものかもしれないけど本心というものが確かでない限り、良い言葉は嘘にでもナイフにでもなってしまう。

僕自身が34年も生きてきてそういうことがイマイチわかってなかった部分もあったため、それに気がつけた今回の出来事はマイナスばかりではないと思うようにした。

何より友達、助けてくれる人、従業員、猫、自然、時間、空間に感謝するようになった。

なぜかそう思って生きているととても感情的に生きているように思え、ある意味で自由だと感じるようになってきた。

資本主義に疑問を持ち、理屈が嫌いだったけどそこに馴染もうと一生懸命働いてみた。

その結果「なんか違った」ということに気がついて、だけどガムシャラ7年間も休まず働いたのはよかった。

いろんなものを背負いすぎたということはあるけど、それで手に入った経験があるのだからそれはよかった。

これからは自分自身をもっと大切にしてみようと思う。

AIが数秒で絵を描く時代にアートを作る。

そんなことをやってみたくて、ツールはやはり文字しかなくて。

クオリティの話ではなく、その根底となる感情がどのようなものなのか?ということが重要であって、そこに込める魂がどういったものなのかということが重要だと思う。

そういうものを磨くため、僕は旅に出る。

感謝をする。

とにかくそれまでにいろんなものにお別れをしなければならないけど、今日が旅のスタートだ。

心機一転、カーテンを開けて窓を開けて。

朝日の暖かさを感じてみても、よしっと思ってみても、それでも未来はわからない。

でもそれでいいのだ。

ここがどこなのか誰も知らない。

僕が誰なのか誰も知らない。

Nobody knows.

それでも世界は進む。

今日も進む。

あの国まで行ってみようか。

そんな生き方していけば、そこには何かがあるということを知れる。

そのために行けるとこまで行ってみる。

後悔すべき時間なんて最初からなかったんだ。

ここ一週間で出会えた皆さんに本当に感謝するとともに、行けるとこまで。

会ってくれた皆さんありがとうございました。

また世界のどこかで。

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