珍しく深夜1時に眠りについた。
日差しが暖かくて30分のつもりが2時間も昼寝をしてしまったからかもしれないが、それは別に良かった。
朝早く起きてどこかの建物なりに出勤する必要もなければ、パソコンを開く必要もない。
起きるのが昼なら昼でもいいが、そういう生活をしていると朝5時6時に必ず目が覚めてしまう。
なぜ仕事をしているときは7時でも8時でも永遠と眠かったのに、仕事をしてない時ほど早起きができるのだろうか。
きっとそれは”昼寝をすることができる”というアドバンテージがあるからなのだ。
つまり頑張って寝る必要がない。
寝たいときに寝るなんて動物的な行動が、現代では有り得ないこととなっている。
昔サラリーマンをしていた頃の自分は強烈に昼寝に憧れていた。
それがしたくて独立したと言っても過言ではない。
普段できるようになってしまうと、それに特別な感情がなくなってしまう。
それが慣れというものだ。
どうも世の中は慣れというものに厳しいような気がする。
当たり前と思うなかれ、慣れはよろしくない、とそのように言う。
これはおそらく【後悔の念】と紐づいて考えられていると思う。
朝6時に起きてもやることがないので、こんなことを考えたりするのだ。
後悔については昨日何度かその文字を目にし、口にしたワードだからか夢に出てきた。
夢の中で考えたことを、起きてすぐ考えながら同時に言語化している。
読み返しながら書いてないから僕もこれを投稿するまでは何を書いているかはよくわからない。
よくわからないが、後悔について書いてみようと思った。
「後悔しない生き方をしたい」
20歳そこそこの僕はそう思っていた。
震災の影響もかなりあったと思う。
荒れ果ててしまった海岸で、人の住むことができなくなったその集落で、大勢がなくなったその場所で、人間はこれほど無力なものであると知ったときからかもしれない。
人があっさり死んでしまう。
右に行けばよかったものを左に行ってしまった。
逃げればよかったものを家を見に帰ってしまった。
そういう話を聞いた。
その後数年が経ち震災の資料館などに行っても同じように助かった人たちは後悔していた。
そういう人々の言いしれぬ感情に頭を殴られたような感覚があって、その強烈な悲しさを自分に置き換えてみようとも想像さえできなかった。
きっとすごく毎日辛いのだろうと部外者ながらに思い、頭のどこかで「後悔しないように生きたほうがいいじゃないか」と思ったのだろう。
その頃の僕が言う後悔しない人生とは、イコール好きなことをやるということだった。
だから旅をした。
旅は好きなことだし、人生を切り開く可能性を感じていたからあらゆるものを捨ててでもそこに賭けようと思えたのは【後悔したくない】というある種の念によるものだったのだと思う。
死の瞬間には後悔する人が多いという。
死ぬ間際に「もっと働いておけばよかった」だとか「もっと貯金しとけばよかった」などと言う人はいないらしい。
それよりも「あの人にちゃんと気持ちを伝えればよかった」「もっと家族と過ごせばよかった」「やりたいことをやればよかった」という後悔はよくあるという。
そこで僕はふと気がついた。
僕が旅したいと思った気持ちも死にゆくひとが抱く感情も、主観的なのだ、と。
後悔せずに生きる、後悔せずに生きたいという言葉の根底には”自分”という存在がある。
自分のことだから当たり前だと思うかもしれないが、世の中に起こりうる後悔はすべて他人や現象がもたらすことではないだろうか?と思った。
だから人のことを恨んだり憎んだり悲しくなったり苦しくなったり、仕事が嫌になったり辛くなったりするのではないだろうか?
よく考えてみると、それそのものが起こったことは後悔する”きっかけ”でしかなく、後悔の正体そのものではない。
地震が起こったこと、津波が来たこと、妻が浮気したこと、従業員にお金を持ってかれたこと、怪我をしたこと、事故に巻き込まれたこと、誰かが亡くなったこと。
それらは現象でしかない。
とりあえず確実に言えることがそのきっかけをもたらしたのは自分自身ではないということ。
それらに対してどこまでさかのぼって悔やんでみるかによるが、例えば結婚して妻に浮気されて泥沼裁判で親権を取られたみたいなことがあった場合、過去のどの時点のことを後悔するかは人それぞれだと思う。
昔何度か書いたことがあるが、時間とは過去から未来へと流れているのではなく、未来から過去へと流れているのだ。
誰もが過去は変えられないと思っているけど、そんなことはない。
未来次第で過去はどうとでも変わってしまう。
結婚したという過去、出会ったという過去、人はなにか不都合があると過去に遡ってどれがダメだったのかなんて考え始め、ダメそうなことを見つけるとそれをしたことを後悔してしまう。
楽しかった嬉しかった過去だとしても、それを嫌なものに変えてしまう。
後悔先に立たずの本質は、どんな良い行いを心がけていようとも「いつか誰かに過去を壊されることはあるし、それを防げないよ」ということにあると僕は思う。
“先”とは未来ではなく、過去を指すのだから。
先日は〜、先程は〜、過去に対して使う言葉だということからもわかる。
未来のある時点というものは始まりである。
その始まりを不可抗力的に誰かにあたえられた時に、つまりさっきの例え話で言えば妻に浮気されたときにそれは文字通り抵抗することが不可能な災害や交通事故のようなものであると言える。
その起こった出来事に対して後悔するかどうかは自分ではなく、そのきっかけを作った本人なのだ。
それはもはや主観でもなんでもなく、自分の手の届かない違う誰かの世界の話で、介入もできなければただ苦しむことしかできない。
手の届かないものを苦しむというおかしな状況をなんとかするために、一生懸命過去の自分を悪かったことにして納得しようとする。
そんな辛い時間が後悔というものの本質なのだ。
そして、それに耐えきれずに人は人を殺してしまうのだと思う。
殺人事件の大半が家族や恋人など身内によるものだという。
相手の過去をブチ壊すことができるほど影響力をもった人間はそれを愛と呼ぶが、実際は表裏一体で裏返せば暴力でもある。
もしもその自覚がなければ無意識で相手をどこまでも苦しめることもできてしまう。
誰しもが後悔したことがあると言うのは、誰しもが他者から泣き叫びたくなるような仕打ちだったり、もう誰も信じたくなくなるようや裏切りを経験しているからだ。
大切なのはその経験をどう考えるかだと思う。
ここでただただ自分の過去を悪いものだと決めつけ、ただただ起こったことに対して憎しみや負の感情しか生まれなければ、結局一生後悔だらけの人生を歩むと思う。
あらゆる人が悪さをしてくるということではないが、後悔したくなることが起こった時点での自分が変わらなければ、必ずまたいつか同じことが起こる。
というか起こす。
自分が変わらないのだから、同じ自分が作る未来は変えようがない。
未来が変わらないなら過去も変わらない。
なぜ憎しみや負の感情だといけないのかというと、それは相手に対する想いであり、自分自身へ向けた感情ではないからだ。
相手へいくら想いを投げつけてみても、そもそも手が届く世界がそこにないのだから意味がない。
それよりもそのエネルギーを自分に向けるべきなのだろう。
自分を自分で殺したくなるほど憎たらしいと思う人間はいないが、劣等感や嫌な気持ちにはなれたりはする。
そうすると極端なことを言えば自殺してしまうのだが、後悔すべきときが来たら自責や自己嫌悪よりもやるべきことは感謝だと僕は思う。
これは昔から思ってたわけではないけど、ある時からなるべく思うようにしていて、最近は確信に変わった。
後悔するなんて嫌なことに感謝するというとてつもない矛盾。
聖人君子でもなければ神でもない自分が、他者や他者の行いを簡単に許すなんてことはできない。
憎たらしいものは憎たらしいし、嫌なものは嫌。
だけど後悔することのきっかけになった嫌だと思った現象に対しては本来は客観的に考えることができるからこそ、一歩距離をとって考えてみることは大切なのだと思う。
そしてその結果過去のどの時点の自分の言動を後悔の対象にするのかを深く考えてみると、見えてくるものがある。
その対象となる時間が見えた瞬間こそが、感謝がなかったと自覚できる瞬間なのだろう。
そのときの言動は良い悪いではきっとなく、ただ単純に感謝してなかったということだと思う。
幸せだと思えること、安心できること、大切だと思えること。
こういうものを他人なりに壊されると後悔というものが始まる。
失くなって初めて気がつくなんてよく言うが、まさにそれが後悔の本質なのだと思う。
慣れによって盲目的になってしまうものとは、「有り難し」というもの。
有り難しは、滅多にないこと、存在そのものがあまりに珍しいことを言う。
ありがとうは当たり前ではないことに対する感謝の気持ちを言葉にしたものだ。
失くなってしまった日常が、有り難いものだったと日々思えていただろうか。
それを言動に変えることができていただろうか。
つまりはそこに行き着く。
それに気がついたら人は変わるし、人に対する想いや在り方も変わってくる。
世界を旅しててよく強盗に合う人と合わない人といるが、その違いは単にスキがあったり用心してないだけだったりする。
それと同じことなのではと思う。
つまり自分が変われば人との付き合いも変わる。
そうすることによって、相手の反応も変わる。
自分が変われば起こる現象も変わる。
不可抗力なのだけど、予測して避けたりすることが少しはできるようになると僕は考えている。
人の気持ちがわからない人、人に平気で嘘をつく人、損得でしか物事を考えない人は、有り難いという感覚がなくこれまで後悔をあまりしてこなかった人なのだと思う。
悪いことが起こっても、過去さかのぼってどの時点の自分が悪かったかなんて考えない。
ただそれを起こした相手のみが悪く、憎しみ、嫌い、むしろ自分が辛くなって苦しくなって、離れてしまえばそれで終わりだと思っている。
まさに臭いものに蓋をするという生き方。
もしもそうやって死の間際まで自分自身を見て見ぬふりをしていれば、死ぬときに全部まとめて後悔してしまうのかもしれない。
すべてが当たり前ではない。
そう毎日意識して感じることをしなければ、人間はアホだからすぐに忘れてしまう。
日々仕事が忙しいと言って、考えることや思いやることも忘れてしまえばやはり後悔すべき出来事は大なり小なり頻繁に起こるようになるのだと思う。
ある種の警笛のようなもので、ストレスの正体も実はそれなのではないかと思う。
時間が未来から過去へと流れているということを理解したとき、過去は変えられるようになる。
後悔はスタートでしかない。
憎んで過去を悪いものにするか、感謝して過去を良いものにするか。
それは自分次第だ。
どうせ死ぬことは決まっている。
なのであれば最後くらい「良かった」と言えるような生き方をしたいと僕は思う。
後悔しない生き方ではなく、良かったと言える生き方を。
それは好き勝手やりたいことをやるということではなく、むしろたくさん後悔してたくさん感謝するようになりなさいということなのだと僕は思っている。
毎日が有り難いと思い、出会った人や猫や米に感謝するように生きる。
それを体現しようと思って真剣に考えるし、言葉にし書くし、猫が寒そうにしてれば一緒に布団にくるまって寝てみたりもする。
そういう小さな、1円にもならない、非生産的なことがとても大事なのだろう。
などと朝6時に起きて考えて文字にして今日も一日が始まる。
生きることをがんばりはしないが、ただ人や自然は大切にしたい。
そこと関わることができている自分の感情や想いも大切にしたい。
そんなことを考えられる時間が今は幸せだと思え、そこにモノもお金もいらないからこそ気が楽なのだと思う。
後悔についての私見でした。
読んでくれてどうもありがとう。