かつてサラリーマン美容師をやめて世界へと旅立ち、世界各地で出会った人の髪を切るなんてことをやった。
多くの人は僕のことを美容師だと思っていたはずだし、自分でも美容師だと名乗ってはいたものの、やっていることは美容師のそれとは違っていた。
髪を切るという一点においては同じことをしているのだが、実態としてはただ髪が切れる旅人というだけだった。
ドライヤーもない、鏡もない。
そんな中で「まあ切れないことはない」くらいの感覚で1301人もカットした。
僕がやっていたのはコミュニケーションだった。
髪を切るという時間は僅かなようで長い。
それほど知らない人に自分の体の一部を触れさせるなんてことが普段はありえないのに、髪の毛とはいえどそういった状態が15分20分と続くのだ。
それはなにか特別なことのようにも思えた。
美容室でのヘアカットとの決定的な違いは、そこにお客さん的な概念がないということだろう。
商売としてやっているわけでもなく、あちらも客として来ているわけでもない。
ただ一緒に飲もうだとか、ただたまたま出会ったから踊ろうだとか、そういう感覚に近いものであった。
だから僕は美容師をやっているのかというと、そうではないと思っていた。
カンボジアで感銘を受けた言葉がある。
カンボジアでは美容師のことをカッソというそうだ。
「髪が切れる人」
それだ、と思った。
そう、僕は髪を切れるってだけの人でよかった。
別にカリスマである必要もないし、売上がいくらだとかもどうでもいい。
そう思いながら美容師をしていたが、美容師をしているときはそういうことは口に出せなかった。
僕は髪を切れる人として旅を続け世界で本当に1000人以上の人の髪を切ってしまった。
その後、日本に帰り僕は美容師へと戻った。
今だから言うけど正直しんどかった。
箱の中にとらわれているような感覚に陥り、それが自分の店なのだけど窮屈でたまらないと感じるのに3ヶ月もかからなかった。
それでも自分で出したお店だし、現実的にお金の問題がある。
いつしか僕は一生懸命働く美容師になっていた。
それが嫌で旅に出たはずなのに。
結局その3年半後に美容師は引退した。
それでもそのまま仕事ばかりする生活は続き、ついには7年も経ってしまった。
今改めて旅を始め、昔に比べて圧倒的に意欲がなくなっていることに気がついた。
観光もめんどくさいし、行きたい場所もやりたいこともない。
髪を切りたいわけでもない。
年齢的なものと言えばそうかもしれないし、一度見た世界だからそう思うのかもしれない。
特に何をしようと決めた旅ではなかったけど、日本を出るときに僕はなんだかハサミを持っていかずにはいられなかった。
しまい込んでいたものを探し出して、バッグへと詰めた。
ところが昔のようにストリートや公園でカットをしようとは来てみてやっぱり思わなかった。
ハサミを使う日は来るのだろうかなんて考えていたそんなある日ヘアカットを頼んでくれた人がいた。
ハサミとシザーケースしか持ってきていなかったから、急いでコームとカットクロスを買いに行った。
カントーという中規模都市に滞在していたから、探せばあるだろうと少し探したらすぐに見つかった。
ちょうどお気に入りのサイズとデザインのカットコームを見つけ、クロスも見つかった。
サイズ感がわからないので悩んでいると、暇そうにしているオッサンがつけさせてくれた。
売店のおばちゃんたちから笑いが溢れる。
そうこれだったんだよな、と思った。
あちこちの国で髪を切りたいなんて自分本位の勝手なビジョンを掲げ、あちこちの国でそういうことをやってきた。
ベトナムでもビーチや公園で髪を切った。
おばちゃんたちがそれを見て笑うのだ。
今ベトナムに来てみて、よくこんな暑い中やっていたなと感心する。
きっとおばちゃんたちも同じようなことを思っていたのかもしれない。
改めて思うのはそれがとても楽しかったんだなということだった。
旅なんかしていても、実際現地の人とはなんの接点も生まれない。
ものを売るとか買うとか、そういう利害くらいでしか話をしない。
それなのにヘアカットというツールを使えば、異国の地で笑いが起きるようなシチュエーションに自分を立たせることができる。
それが楽しかったのだ。
公園で髪を切って、久々の感覚に自分でも少し嬉しくなった。
僕が10年やってきたことは、美容師ではなくこれなんだって。
最初から最後まで。
髪を切るというコミュニケーション。
やっぱり改めてそれに気がついた今でも、またストリートヘアカットをやりたいとは思わない。
だけど機会があったら、また世界で会う誰かの髪をたまには切ったりもしてみたい。
今回すごく感じていることだけど、これまで一生懸命いろんなことをやりすぎて、人の何倍も仕事していろんな経験をして、今はもういろんなことに興味がなくなってきた。
その中でやりたくないことも増えてきた。
今はやりたいことというより、ごく自然体でやれることがあるということが大切なように思う。
ヘアカットというコミュニケーションもそのひとつなのだろう。
僕はもう美容師にはならないけど、これだけは死ぬまでやっていけることなのかもしれない。
少なくとも、文字を書くことを含めて一生続けられそうなことにすでにいくつか出会えてるのは幸せなことなのだと思う。
そういう生き方をしてこれたことは、良かったと思う。
また次はどこで誰の髪を切るのだろう。
なんだか楽しみである。