【疲弊していく未来との決別。人間らしく生きるとは何かを考え続ける】

僕がこのタイミングで旅に出た理由について少し書いてみる。

2017年に書いた記事に「人間は超デジタル×アナログになっていくだろう」という一文があった。

その頃の表現で言えばそうだったようだが、つまりAIとアナログとが共存する世界において、人はどうすべきだろうなんてことを具体的に考え行動に移していたらしい。

6年も前のことだ。

先見の眼があるかどうかはわからないが、その頃から先のことは考えようとはしていた。

ただそれは人としてというより、仕事をするならという条件付きだったように思う。

わずか数ヶ月前にChat GPTというものが話題になった。

なんのことがわからない人は、何でも答えてくれ、専門的なことでも何でも教えてくれるAIツールだと思ってくれればいい。

1ヶ月ほど前から触り始める人が増え、解釈のミスはあったりしたものの、バージョンアップを繰り返し今はもう人間を超えてしまった印象さえある。

あと数ヶ月かしたらさらにバージョンアップし、神の領域へ行ってしまうと思う。

例えばAIが自分の語学力を分析し、それに合わせて英語を教えてくれるような世界に間もなくなっていく中で、学校の先生や駅前留学的なものはどのような立ち振舞をすべきなのだろう。

きっと疲弊する。

仕事を取られるなどという生やさしいものではなく、存在の否定。

「いらないですよ」と人間が言うのだから。

なぜかというと、AIツールは無料だからだ。

大体の場合、有料のものが先に出る。

その後無料のものが世界に公開され、次々と類似ツールが出てどんどんアップデートされていく。

有料であるものが優秀であるという従来の概念が崩れ、相場が下がるどころかそもそもそんなものが存在しないような世界が生み出される。

作曲、絵を描く、動画を作る、写真を作る、全てそう。

文字を書く、資料を作る、など。

そうなったときに、それらを使う人は何を選択するのかという話になり、当然無料のものを使うだろう。

そうすることで従来のツールやサービスは衰退するのだ。

実はAIに限らず、日本人はそういうことを過去にもしてきた。

高度経済成長の時代に失われたものが実はたくさんある。

安く、もしくは無料で、便利で、使いやすい。

そいうものに価値が見出され、手間がかかるようなものは淘汰されてきた。

それが何かというと伝統、文化、歴史である。

僕は今人類は…というと大げさだが日本人はある局面に立たされていると思う。

AIが僕らに問うものは「どう共存していくんですか?」と言うものだ。

その答えはなんだろう。

そういうことをずっと何年も前から考え、仕事を作ってきた。

7年自分でビジネスを作り様々なことに挑戦して、ついにその答えは見つからなかった。

博識っぽい人はSNSで「AIをうまく使うべき」だとか「質問のしかたに技術や知識がいる」などという。

そんなわけあるか、と思う。

いずれAIをAIが使うようになるだろう。

AIが使い方を教えるのではなく、わからない人のかわりに使ってくれる。

外国語もそうだし運転技術もそう。

AIが運転してくれるのだから技術はいらない。

人間はただ鉄の塊に乗って電波にコントロールされるだけだ。

そんな時代がいよいよ来たときに、人間はどう共存できるのか。

僕はまともな理性を持っていれば、できないと思う。

疲弊し、発狂するだろう。

なぜかというと、決定的に時間の感覚が違うからだ。

人間は時間ありきで生きている。

AIにはそれがない。

それゆえ人間は歴史を大切にするが、AIに歴史は必要がない。

常にアップデートを繰り返し、常に新しい歴史を産み続けているからだ。

その概念の違いを埋めることはまず無理だろう。

だから理性で考えても頭がおかしくなるだけでなんにもならない。

かといって対立することもできない。

それは人類の歴史が証明していて、新幹線ができたのに歩きで東京から大阪に行くやつなんかいない。

いたとしたらそれはわざわざ無駄なことをする旅人かよほどの暇人くらいだと思う。

人間がAIと決別することはありえない、かいって共存することも難しい。

社会人としてだとか、大人としてだとか、仕事が何だとか、もう割とどうでもいいことなのではないかと思っている。

人として、どう生きていくべきか。

そういう問が突きつけられていると思う。

また改めて書きたいが、世界はコロナを経て変わったと感じた。

コロナが陰謀かどうかなんてわかる訳はないが、ただ1つ言えることは物理的に人間の行き来が止まった世界において、電波は自由に動き回っていたということだ。

インターネットや機械というものが世界を変えていっている。

そんなことは当たり前に昔からわかっていたことだったが、目の当たりにするとまた印象はだいぶ違った。

僕は今のところ、もっと感情を大切にすべきだという結論に至っている。

理性的に生きるというのは若干もう無理がある。

感情的とはなんなのか。

それが自然である。

カンボジアに来てだだっ広い原っぱを見たりして、日本にはこういう景色が少なくなったなと感じた。

北海道にあるくらいだろう。

開拓できるところは開拓し、住めるところには住んだ。

そうして何が生まれ、何がなくなり、何が残るのだろう。

“ありのまま”という生き方をもっと模索していきたいと今は思っている。

日本を出て感じられることは多い。

それらは情報ではなく、テレパシーのようなものだと思っている。

理屈ではない、感情に訴えられる何か。

それは目には見えないし、お金でも買えない。

しかしそんなものが大切なのだと思う。

昨日、深夜にチェックインしたカンボジアの宿のオッサンに飲もうと誘われてビール2缶一緒に飲んだ。

イタリア人の父とトルコ人の母の間に生まれ、フランスで育ったらしい。

様々な言語を武器に遊びまくったのだろう。

口を開けば女の話ばかりだったが、どこかそのおっさんはとても自然的に感じ、好感を持てた。

生き方は人それぞれ。

それでいいし、それを貫くべきなのだろう。

僕も感化され、自分らしくもう少し生きてみようと思う。

この記事をシェアする