いろいろ食にまつわる仕事をしていて、食について僕自身もずっと勉強してきた。
そもそも料理が好きだってのもある。
店で提供する食事のレシピを作ったり、販売する調味料を作ったりする中で食材や素材それぞれの成分や効能といったものも頭に入れてきた。
自分自身で料理をしながらあらゆる素材を使ってみて、味や食感以外の部分を想像しながら作り上げて食べてみる。
効果効能などというものは目には見えないし舌でも感じることができない。
ただ、確実にそこにあるものなのだと思うと無視はできない。
目に見えるものばかりを信じて生きてきたこれまでの時代から、目に見えないものを信じるようになるこれからの時代、味覚もその1つだと思っている。
うまい、まずいとか、色や見た目がキレイだとかでは語りきれない食の新しい時代がやってくる。
しかしそれは新旧合わさったもののように思え、一部ではむしろ古臭いようなものが台頭してくると思っている。
それが現代では無価値なものたちであるから、人は見向きもしない。
玄米を精製して白米にする過程で出てくる米ぬかも現状ではゴミ扱いだが、僕はそこに価値を見出し様々な料理や商品を作った。
今は毎日玄米を発酵させて食べ、味噌を食べ、米ぬかをすべての食事にふりかけて食べている。
とにかくすこぶる調子がいい。
自分の体感のみでそれらがいいと言っているわけではなく、その根拠はまさに新旧のコラボなのである。
旧とは人類が証明しているもの、つまり歴史だ。
それを食べ続けて健康でいられた、力があったという人々が生きた歴史。
膨大な時間と人がそれを証明してしまっており、例えばあらゆるスパイスなども同じようなものだと思っている。
新とはテクノロジーだ。
成分を分析して何がどれだけ入っているか、数字を持ってして知ることと比較することができる。
2つの根拠と、そして自分の経験からそれが良いものであると確信を持てているから食べるようにしている。
世の中はこれから健康がテーマになってくる。
なぜかといえば、先程書いたような見えない世界が重要になってくるからだ。
人間が見えないものとは、霊やなんかばかりではない。
巨大すぎて見えないものもたくさんある。
例えば地球そのものは見ることができない。
空も、海も、そのほんの一部をぼんやりと見ることができているだけ。
つまり人間は自然というものを正しく認識できないのだ。
それから内蔵も見ることができない。
しかし健康とは極端なことを言えば内蔵をいたわるということだから、現代人は目に見えないものを確かなものにしようと躍起になっているのである。
成分表のシールとにらめっこして内蔵が元気になるだろうか?
そんなわけはない。
そんなに簡単なことなのであれば、誰も悩まない。
ここで話題に登るのが添加物である。
国は添加物を推奨していて、最近ではパッケージに無添加と表記することを法律で禁じられてしまった。
ここにマーケティングやビジネスがあるのは当たり前のことで、ものを売るために添加物が必要ということなのだ。
経済でまわっている国がその添加物を規制するわけがない。
ただそれだけの話。
しかしそれを「食べたら体に悪い?」「添加物は危険?」という議論を人はする。
「そんなわけあるか」という人と「添加物は危険だ、癌になる」という人と、それぞれに言い分がある。
しかしそれには”なんの根拠もない”のである。
10年間、ある添加物を食べ続けて生きた人間とそうでない人間で人体実験をして、その内蔵を調べて初めてどうなのかということがわかる。
そんなことをやった人も機関も存在しないのだから、根拠などない。
昔原発が爆発したときに「ただちに影響はない」と政府が言っていたが、つまりそういうことなのだ。
良いとも悪いとも言及してない。
「ダメではない」「体に悪くはない」と言っているだけ。
悪くはないけど、良くもないとも取れるが、実際「添加物は体にいいので積極的にたくさん食べましょうね!」などとは国も医者も栄養士も言わないのだ。
だから、添加物が良いとか悪いとかそういう観点で見ている限りは本質は全く見えてこない。
添加物が入っている食べ物は無数にある。
もし添加物が一切ダメなのであれば、少なくとも外食はもう二度と無理だろう。
「とりあえずなるべく添加物が入ってないものを選んで食べよう」
どうしてもこういう発想になってしまう。
なるべく添加物を食べなければ何かが変わるかどうかも、またその根拠がないのだ。
しかしそのように【何を食べるか】ではなく【何を食べないか】を考えたほうがいい。
そもそも添加物は添加されているだけなので、なんかしらの本体がそこにあるはずなのだ。
肉なのか野菜なのか米なのか麺なのか。
それらもひっくるめて考えないと本当のことはわからない。
世の中には多くの食べ物がある。
添加物があるおかげで食べれないはずのものが食べれるようになっていたりするからわかりづらいが、例えば腐りやすいものだったり、保存が効かない食べ物でも今は手に取ることができる。
それは商品として売るため、つまりマーケティングが大きな理由だからで健康かどうかという視点でそもそも作られていない。
安くたくさん食べられるものは重宝する。
手軽なものは売れる。
例えばインスタントラーメンやカップラーメン。
インスタントラーメンがなぜこれほどたくさん売ってるのかといえばそういうことなのだ。
インスタントラーメンに栄養素が高い米ぬかをふりかけて食べてみたところで何かが大きく変わるだろうか?
添加物もそういうことと同じ。
添加程度であればそこまで良くも悪くもならない。
カップラーメンを毎日3食たべながらサラダと野菜ジュースを飲んでみてまともな体が作られると思うか?と聞くと100人いたら99人は「それは無理でしょう」と答えると思う。
そもそも論として、食べないほうがいいご飯と食材というものがこの世にはありすぎる。
飲まないほうがいいものがありすぎる。
勉強してみてそれは思ったことなのだけど、これはヴィーガンやベジタリアンの肉は食わないという主張とは違う。
肉がダメとか野菜がいいとか言うのは添加物の議論と同じで、真面目にヴィーガンやってる人にはごめんなさいだが正直議論は無駄だしやってもあまり意味がないと思う。
動物愛護的な理由の人は余計ややこしいので割愛。
ただ宗教上の理由で肉を食べないというのはよくわかる。
これは文化だからであって、日本人だって鳩は食べないが外国では食べたりもする。
例えば肉の中でも食べないほうがいい肉と食べたほうがいい肉があったりするが、野菜や魚でも同じことが言える。
炭水化物も全部が全部太るとかそういうことでもないし、むしろ食べたほうがいい炭水化物だってある。
その中の1つが玄米である。
塩もなんでもかんでもダメだと言われるけどそんなことはない。
塩は食品を保存するためにも使え、味噌だって塩が入っている。
ちなみに味噌は栄養がありすぎるからむしろ毎日タッパーで持ち歩いてでも食べたほうがいい。
塩分気にするより味噌舐めてたほうが健康になると思う。
添加されている程度のものに目くじらをたてるのは表面的なことしか見ていないというもので、そうではなくそれぞれの食材や素材がどういうものかを見ようとすれば真実が見えてくるように思う。
ただそれぞれの食材は見つめてみてもそれがつまり何なのかはよくわからないのだ。
マグロを見つめてみたところでどれほどタンパク質が入ってるかなど知る由もない。
だから僕は新旧それぞれの視点で見極めをしている。
健康という見えないものを維持するために、食材の見えない部分を見ようとする。
少しだけそういう観点で気にして食材を選んでみると、素材の集合体である料理も若干見方が変わってくると思う。
何を食べたほうがいいか?ではなく何を食べないか。
この引き算の考え方がこれからの時代っぽくて、僕はとても本物っぽいなと思っている。
人間に必要な食べ物って意外とそんなに多くない。
猫だってそんなにいろいろ食べない。
それを質素というなら質素なのかも知れないが、自然といえば自然なのだろう。