僕は言葉を大切にして生きている。
それは僕の価値観であり、言葉を大切にできない人は好き嫌いではなく共感ができない。
言葉と想像は密接な関係があると思っていて、言葉から物事を想像するということは人間にのみ与えられた特権である。
それを無視して生きるということは、機械的な生き方のように思え、人が人であることをやめてしまっているように感じるからだ。
それを言ったらどうなる?
それを言わなかったらどうなる?
それもまた想像であり、そのコミュニケーションの先に愛や争いが生まれるのだろう。
だから僕は言葉を大切にしたい。
争いたくはない。
できることなら、愛する対象は多いほうがいいと思っている。
歳老いていくということは、いろんな解釈ができるが、僕の1つの答えとしてはより愛することをするようになるというものだ。
もちろん女性なのかと言われればそうなのだが、猫もそう。
時間、自然、空間、国、モノ、場所。
あらゆるものが愛すべき対象にはなってくる。
子供の頃なぜそれがわからなかったのかと言われれば、僕はひたすらに恋をしていたからではないかと思う。
あらゆるものが恋い焦がれる存在だった。
自分の手の中にあること。
そういうことが大切だと思っていた。
彼女にしてもそう。
仕事にしてもそうだった。
旅にしてもそうだった。
「好きになった自分が好き」
そういう感情で生きていた。
しかし何事も経験を重ねていくと、感動が薄れる。
不感症になった今は、あらゆるものに恋をしなくなってしまった。
手に入れたいと思うことがなくなってしまった。
そうなってくると、欲するものは「愛すべき存在」であり、それが何かということを模索することがまずは当面の生きる目的なように思う。
例えば道を歩いていて、美女がいたとする。
僕はその人を愛することができない。
相手が愛することを許してくれないからだ。
そういう関係に至るとすれば、人間の場合言葉が必要になる。
僕はそれに対して無気力ではないし、言葉を交わすこともまた大切な”生きる”という行為だと思っているから楽しみたいとさえ思っている。
無条件に愛することを許してくれるようになれば、それはやっぱり幸せなんだろう。
「愛してもいいよ」と言ってくれる人が必要なのだ。
ただ、実はそれは人間には限らない。
あらゆる世界がその対象になりうる。
猫も世界。
自然も世界。
空間も世界だ。
そこには言葉はいらないが、かわりに必要になるものがあり、それが念だと思う。
信じるということなのだと思う。
信じるという字は人と言でできているから、人と人との間に媒介する言葉によって作られる。
つまりコミュニケーションのことを言うと考えているが、自然や空間の場合は言葉を超えた念が必要になる。
それが信念だ。
猫を撫でることも、湖のゴミを拾うことも。
それをやるんだという信念が世界を愛すということになるのだろう。
それらを手に入れようとするのが恋だとしたら、100%間違ってはいないのだろうが成立はしない。
他人の人生にしろ、自然にしろ、手には入らないのだから。
成長するにつれある程度それが無理だということを理解してくると、愛するということに切り替えていくのかも知れないが、周りを見渡すと未だ恋をしている大人もたくさん見かける。
命、時間、空間、自然、信仰などをお金で買えると思ってる。
そういう歳の取り方は、資本主義社会ゆえなのだろうなと思ったりもする。
愛するということは、とても静かで穏やかなもののように思う。
手に入れるのではなく、むしろ手放すことなのだろう。
自分自身を。
手放した自分自身が第二の人生の中で核になる。
We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.
私たちは、いわば二回この世に生まれる。
一回目は存在するために、二回目は生きるために。
人間みないろんな目的を持って生きている気がするけど、生きるということがやるべきことであって、その本質は愛なのだろうな。
などと12時から夜遅くまでビールを飲み散らかして二日酔いの頭でぼんやりと考えている。