人は何らかの現象が起こるとそこに対して「なんだろう?」と疑問を持ったりするわけだけど、そうしないために現象には名前がついたりする。
例えばお化けなんかもそうで、不思議でおそろしい現象が起こるそれをお化けのせいにしたくなる。
それはそこにお化けが存在しているということではなく、現象に対してのこじつけであると思う。
人が死んでしまうこと、死んでしまったあとの世界を想像して、お化けという存在をあることにし、その不思議な現象に納得する。
つまり人がそう考えるからその現象はそうなだけであって、それが存在の証明にはなり得ないということ。
世の中見渡してみればそんなことばかり。
実際には存在しているかしていないかわからないもので溢れている。
その現象そのものが起こる原因は決して目に見えてるわけでない。
エネルギーだとか、微生物だとか、ウイスルだとか、温度だとか。
科学によってそれを感じることはできるという程度で、結局のところ科学は感覚的なものでしかないと僕は考えている。
それそのものがなんであるかがわかったとしても、顕微鏡を通さなければ見えないものなのであれば人には感じることくらいしか結局はできないのだから。
1+1は2だと知っていても、知らない人からしたら2つのケーキがあってもそれは美味しそうなケーキだという感想を持つ以外の何でもないということと同じで。
コロナウイスルもそう。
あれは科学的感情であって、体調が悪くなるという現象をコロナウイスルのせいだと決めつけるのは不思議なことをお化けのせいにするのと何ら変わらない。
風邪かもしれないし、酒の飲み過ぎかもしれないし、働き過ぎかもしれない。
頭でそれをお化けのようにウイスルのせいだと思い込めばその現象をいかようにでも形容できてしまうのだから、実際は真実はよくわからないまま。
検査をするしないも関係がなく、そのウイスルをどう思うかによって結果は変わるということ。
風邪ひいた時に検査したらウイスルが見つかるだろう。
で、風邪のウイルスがあったからなんなのだ?と人は思うわけ。
怖いお化けだと思えば怖いし、怖くないと思えば怖くない。
真実はどうにでもネジ曲がる不確定なものなのだとよくわかる。
もし人間がいないとしたら鉛筆は鉛筆になり得ないわけで、ただの木だ。
説明する人や使う人がいて初めてそれは鉛筆となれるわけで、あらゆる現象に対しても説明をする人がいなければそれはなんでもないわけ。
ウイスルが空気中に存在していることは証明できても、今この瞬間どこを漂っていて、誰から誰に移っていって、体調に影響したかどうかなんてことは3年前から今に至るまでどの世界の誰にもわからないことなのである。
3月何日からマスクを外すとか、そんなことにもなんの意味もないがようやく説明そのものが変わってきたのだなと感じる。
説明が変われば現象そのものがなくならなくても、存在そのものはなくなるから。
ただの風邪だと人が言い出したとき、それはただの風邪になる。
3年前からコロナとかどうでもいいと一貫してずっと思っていたのはそういう理由がある。
僕がマスクをつけてたのは鉛筆を鉛筆だと思う人に「これは木でしょ?何言ってんの?」と言ったところでなんの生産性もなければトラブルのもとにもなるし楽しくもないからだった。
ただ今は木でしょ?という人が増えできたと思うから僕はもう申し訳ないがお先にマスクは捨てさせてもらった。
なんか店員とかに言われたらつける用の1つだけを残して。
世界のあらゆることを見渡してみると、真実は意外とよくわからないということに気がつく。
僕はわからないことはわからないでいいじゃないかと思ったりしていて、むしろ頭で考え理屈で説明できるようなものは人間なら再現ができるはずだとさえ思う。
再現ができれば壊すこともできる。
壊すことができないものは構造が理解できないもの。
つまり感情であり自然だ。
ウイスルや細菌も感情だから理解ができない。
猫も木も海も山も。
「ここに住もう」とか「この人にくっついてみよう」とかそういう理屈は存在しない。
猫は怖いものを見たらそれが何かなんて考えずただ逃げるわけだけど、そういう感情でしか自然はうごかない。
人から人へウイスルを【移す】という言い方は、とても人間らしくて理屈っぽくて、まるで自然とその感情をコントロールできるかのような人の行いはどこか滑稽と言うかそのようにさえ思う。
しまいにはウイルスを【持ち込む】とか【移して殺す】とかまで世の中が言い出した時は言葉が出なかった。
なんで?
ありのままでいいじゃないか。
その現象をただ受け入れ、疑問に持つなら持てばいいけど諦めも肝心。
だって頭で考えてもわからないのだから。
お化けがいるのかいないのか?
死後の世界があるのかないのか?
そんなことはわからない。
わからないということが少なくともわかっているというだけ。
ただ、わからないことを一生懸命考えるその時間は哲学として意味があるものだと思う。
考えることそのものに意味があるのであって、答えは存在しないし求めてもいない。
お化けがいると思えばいるのだし、いないと思えばいないというのと同じ。
その答えには意味はない。
そういった自然に到達できると、いくらか人は生きやすくなると思う。
そういうことは猫が教えてくれた。
だから猫おすすめ。かわいい。