【与える旅をしてみようか】

僕たちが出会ったのはお互いが20代の頃だった。

世界一周の旅に出て数カ月後におじいちゃんが亡くなったとインドで知らせを受け取り、正直悩んだが帰国することにした。

インドから帰国した僕はお葬式への参列を済ませてすぐに東京へ向かった。

インスタグラムから連絡をくれたとある美容師から髪を切ってくれと頼まれていたからだった。

東南アジアとネパール・インドを旅した感覚が抜けない僕は、秋の東京には似合わないビーチサンダルで練馬の公園へ向かった。

バーベキューに誘ってもらったのだが、何故か当時付き合ってたイギリス人の彼女も引き連れて参加し、普通にビールを飲んで酔っ払ったあとに無理やり髪を切って一万円をもらった。

あれは大丈夫だったのだろうか、と今でも思う。

誘ってくれたその人も、僕も、なんだかあの頃はあまり深く考えずに勢いで生きていたような気がする。

それから8年と半年が経ち今でも上野や高円寺で毎月のように飲む仲ではあるが、ふとお互い変わったものだと上野の立ち飲み屋で日本酒と天ぷらを前に昨夜思ったのだった。

「行動力あるよね」

昔からよく言われた。

確かに振り返ると無茶なことをやってきたなとも思う。

だめな理由、できない理由を行動でカバーしてきた。

お金がないなら野宿する。

チケットが買えないからヒッチハイクする。

休みがないなら寝ない。

できないということが嫌だったというより、できるのにやらない理由がないという方が正しかったかもしれない。

なりふり構わず自分の足を動かしてした様々な経験はその後の人生においても糧になったと思うが、30代も半ばに差し掛かろうとしたこの頃は少し考え方が変わってきたと思う。

行動は起こせばいいってもんじゃないと思うようになった。

それがもしかしたら頑固になるということなのだろうが、考えずにとにかく動くということがだんだんナンセンスになってきたような気がする。

それは人間として生きている中で、他者との関わり方が変わってきたと言うことなのかもしれない。

世界を旅するだとか、どこかの国へ移住するだとか、そんなことは体一つでどうとでもできた。

20代のときに大切な人がいなかったわけではないのだろうが、今はそれよりもまた違った重たさの想いというものがあるように思う。

それは家族かもしれないし、同僚かもしれないし、友達かもしれないし、彼女かもしれないし、子供かもしれないし、ペットかもしれない。

結局他人は他人なのだが、自分が自分の世界においてその人の存在を一生懸命証明しようとしてしまっている。

過去になんらかの行動をした果にそういった関係性と歴史が作られ、それを大切にしなければならないことを人は知っている。

8年半といえばものすごく長く感じる。

それはなぜかというと、その時間があまりにも重たいからだ。

人との関係性や歴史すべてを切り捨てて旅に出るということは、場合によっては自分の人生さえ否定することになりかねない。

だから行動を起こすことは時間の流れとともに難しくなっていく。

中には行動を起こすことはもう無理だと言う人もいる。

しかし本当は「考える」ということを付け加えればだいたいのことは可能になったりする。

もしそこにお金がかかるのであれば仕事を見直すだとか、ビザの問題で一緒に他国へ移住できなければ結婚するだとか、何かしらのやりようはあるわけでそれを考えればいい。

その考えるという行為は、経験や知識に基づく。

いくつかの答えがある中で、それを解こうとせず諦めてしまうことは選択肢を減らしたり無くしたりするということになる。

だから大人になってからの勉強は大切だし、経験も大切なのだ。

自分のやりたいことを優先する道と、様々な人や関係性とともに生きる道は決して二択の問題ではない。

そうやってちゃんと考えて誰かと生きてみようとすることは、与えるという行為に近いのだと思った。

それはある程度の歴史とともに培った感覚で、若かりし頃にはなかったものだと思う。

お金がなければヒッチハイクをすればいい。

そうやって旅をしてきた中で、たくさんの施しを受けてきた。

行き先の看板を道路脇でかかげる時点で、運転してもらうことやガソリンや場合によってはそのまま泊めてもらったりご飯をごちそうしてもらったり、そんな恩恵を受けるであろうことは想像がついていた。

もらって当たり前とまでは思わないが、かと言って運賃を払うことがそもそもできないのだから話をするくらいしかできることがなかった。

圧倒的に受け取るものが多かった中で、それを行動力があるだとかヒッチハイクするなんてすごいなどと賞賛されるとどこかむず痒い気持ちにもなった。

けど仕方がなかったのだ。

それでも旅がしたかった。

バーベキューに誘ってもらい、肉も酒もただで食べて一万円までもらってしまった。

そんな出会い方をした友達に、昨夜ふと相談をした。

「旅にでるはいいけど、小説を書くくらいしかやりたいことがなくて迷ってるんです」と。

すると「与える旅もいいんじゃない?」という話になった。

そう、何かをしたいと考えていたのはやっぱりそこだった。

12年前は全く何も与えずに得るばかりの旅をした。

8年前は髪を切りながら対価で何かしらをもらうような旅をした。

そのどちらも、与えるだけの旅はできなかった。

けど今はできるじゃないか。

考えることができるだけの余裕と経験が今はある。

それがどの程度のものかはわからないのだけど、例えば200円のビールを1000人に奢ったとしても20万しかかからない。

今ならそんなのも面白いかもしれないと思った。

僕自身はどこに住もうがどこを旅しようが、屋台で最安のご飯を食べて質素な生活をしてればいいから、お金はそんなに必要がない。

けど社長を5年頑張ったから何となく貯まってしまった貯金と、働かないが毎月の給料はある程度入ってくる。

お金持ちとは程遠いが、多少なりともあるそれらの使い道が全くないため、ならば人に何らかの形にして差し上げるのはちょうどいいのかもしれない。

金額に換算などとてもできないが、とにかくものすごい額の施しを受けて僕はこれまで生きてきたのだ。

わずかな給料くらいいろんな人に差し上げるべきだとさえ思ってくる。

それでもやりきれないほど、とにかく僕は様々な人の恩を食べて生きてきた。

その恩を返す時が来たのだろう。

僕は与えてもらった旅により、様々なことに気がついた。

髪を切って旅をして多くのことを学んだ。

たくさんの国のたくさんの人とのごく僅かな接点の中で、多くの優しさを感じた。

そういった思い出や感情が人生そのものの質量と歴史になっている。

もし僕がわずかながらの接点を人と作ろうとしたとき、その人の人生の中で何かが少しだけ重さと意味を持つようになるかもしれない。

そして恩をたくさん受けてきた僕だからこそやることに意味があるのだろうと思う。

34歳にもなり自分の道を模索しようとするのは滑稽にうつるかもしれないし、人に何かをあげる旅なんて理解されないとも思う。

だけどそれが1人の男が生きてきてたどり着いた1つの答えなのだ。

ビールをあげるでもいいし、何か他に配って歩いたら面白いものがあるような気もする。

そんなことを考えていると、人生って楽しいなと思うのだ。

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