知識は荷物にならない。知識は持ち運ぶことができるもの。

2020.5.1の投稿 on Facebook
ここ最近立て続けに嫌なことばかり起こり、精神をすり減らして生きているような気がしています。
数年ぶりに飲み屋で再会した同級生からはめちゃくちゃに失礼なことを言われたり
何時間も何時間も相談に乗った挙げ句に依頼を反故にするようなクライアント
わけわからん理屈で納期も約束も守らない外注先
etcetcetc…
そして思うようにいかないもどかしさや悔しさに押しつぶされそうになり、泣きたくもなり、投げ出したくもなり、誰かにあたりたくもなり、それでも誰にも相談できずに一人抱え込んでしまうザコい自分自身に対しての怒り。
人生楽ありゃ苦もあるさとはドラマ水戸黄門おなじみのセリフですが、30代にもなりそんなことはわかっているのです。
嫌なことばかりではない。
そのぶん楽しいこともあるし、猫は可愛いし、天気はいいし、最終的には「万事オッケーサンキューベリーマッチマイライフ!」と生涯を終えるのだろうとは思っています。
そう信じれる根拠は何か。
僕が僕であり続けるための唯一の武器は【知識】です。
世の中にはお金至上主義の人もたくさんいます。
物を持つことで幸せを感じられる人もまたたくさんいます。
それらがないことで不安になることも理解はできます。
「お金がないから」と言う理由であればなんでも意見が通ると思っていたり、仕方がないでしょうと言えてしまったり、そういう人もいます。
また「お金がたくさん儲かるから」という理由であれば人を裏切ることが正当化されたり、その他様々なことを踏みつけてしまっても良いと考える人もいます。
それもわかります。
しかし、本当に本当にいざというときはお金もモノもたいして持って行くことはできません。
災害でも戦争でもそういった緊急事態でなかったとしても、人一人が物を持ち運ぶには限度があります。
人生が終わるその時にももちろん持っていくことはできません。
だから「意味ないよ」と言っているわけではないですが、すがったり頼ったりするにしてはあまりにも心もとないものだなと思っています。
物欲だったり所有欲だったりそのためにお金が必要だと思う信念自体はある意味の信仰にも近いものがあり、それはつまり行動原理であり、むしろ生きていく道標であり目的にもなりえるものです。
人の原動としてお金というものがある。
だけどそれはいつまでも残るものではない。
残らないのであれば信じる根拠にはなりえないのではないかと。
何を信じるべきかは人それぞれなのですが、お金よりは時間ではないかと思うし、その時間を有意義にするものはお金よりも知識だと思うのです。
人間【損】と【得】では損のほうがはるかに影響が大きいと言います。
1万円の得と1万円の損失であれば失ったほうが2~3倍も気持ちへの影響が大きいそうです。
資本主義社会の中でお金やモノを得る代わりに失っているものは何かというとやはり時間です。
時間とお金を天秤にかけることを平然としているけど、本当は全くフェアではない。
1時間は時給で1000円に変わるかもしれないけど、その1時間の価値が1000円だとは限らないということ。
もしあなたがあと1週間しか生きられないとしたら、1時間にはどれほどの価値がつくのでしょうか。
“そうなってみないと”想像はできないわけですが、少なくとも1000円で動くわけがないとは想像ができるのです。
10万円だったら?100万円だったら?
今度は使う時間がありません。
だから時給10万円の仕事が成立しなくなるのです。
別に死ぬことを考えて生きているわけではないけど、僕の中ではそういう感覚が常にあって、だからあまりお金というものに縛られてはいないしそれが原動力にはなりえない。
けど経営とかしているからお金の大切さや、それが無いとできないことを知っています。
だから不必要では決してない。
ないとやっぱり生きていけないものです。
そういう事を踏まえて【知識】が最も大切なのではないかということを思うようになりました。
そんなようなことに気がついたのは22歳位のときに。
【知識は持ち運ぶことができる】ものです。
重さもない、入れ物もいらない、スマホもwifiもいらないのです。
つまり際限がないということ。
ずっとアップデートしていかなければ錆びついていくけど、知識は絶対に裏切らない。
そしてお金にも困らない。
知識さえあればいつ何時であってもありとあらゆるものと交換することもできる。
持ち歩くようなお金がなかったとしても、その場でサッと生み出すことが可能なのです。
錬金術師のようだけど大げさなことではないとは思います。
知識さえあれば物も得られるし、人とも仲良くなれるし、誰かを助けることもできる。
たとえバックパック一個で世界のどこをふらついていようとも”生きていくことができる”のです。
それこそ無敵なのではないかと思ったりはします。
だから来る日も来る日も勉強に勉強を重ね、知識を積み上げていくということをします。
それが例え絵でも音楽でも経済でも歴史でも漫画でもアニメでも、好奇心がはたらくことであればなんだっていいと思います。
逆説的ですが知識があれば仕事にも物にもお金にも人にも困らないのだとしたら、幸せとは学ぶことで得られるものなのかもしれません。
残りの人生の限られた時間の中で、いかに穏やかに楽しく生きるかということを模索していくとやはりモノやお金よりもその時間の過ごし方がどうであるかという事が重要になってきます。
時間の過ごし方についてはまさに知識がなければ選択肢が狭まります。
損得ということではなく、ただ純粋に時間を楽しむためにも学びは重要であると言うこと。
そして学ぶためにもまた時間が必要であるということ。
仕事やお金に囚われすぎて、そこに時間を使うことにいっぱいいっぱいになりいつしか学びをやめてしまった時に、人は人の気持ちもわからなくなるのかもしれません。
失礼とは読んで字の如し、礼を失うということ。
礼とは「人のふみ行うべき物事」を言う。
つまり失礼とは物事を知らないということ。
失礼な人とぶち当たってイラッとすることがあったとしても、人の振り見て我が振り直せじゃないけど、嫌な出来事それそのものも学びだと思っています。
イラッとしてる時点で自分も未熟だし、モヤモヤして悔しがったりしているのは対処を知らない無知ゆえのこと。
自分の責任。
たとえ嫌なことであっても、それをしっかり記憶に刻み、礼を知る。
最終的にはお金も何もなくても「失礼じゃない人」が人生の成功者なのかもしれません。
そんな風に思いつつ、今日も僕は僕として生きていく。

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